コカ・コーラ、真っ白な紙とパン2023/09/10 07:07

 この「等々力短信」第944号の、昭和24(1949)年秋「オドール監督ひきいるサンフランシスコ・シールズが来日し、その試合も後楽園球場で観た。」というのを読んだ女性読者から反響のハガキが来た。 昭和24年のシールズ来日は、彼女にとっても印象深い“事件”だったというのだ。 大田区の小学校で、小学生招待の「くじ」に当り、野球の“ヤ”の字も知らないのに、あまりにも男子が「ゆずってくれ」というので、誰に渡すことも出来ずに出かけ、観戦バッジとコーラとライト・ブルーの表紙の真っ白な紙に印刷されたパンフレットを貰って帰ってきたのだそうだ。

 コカ・コーラについては、私もよく憶えている。 前に「槍の笹崎」(等々力短信752号)というボクシングの話の中で、昭和27(1952)年5月19日の後楽園スタヂアム、白井義男がダド・マリノを破って、世界フライ級チャンピオンになった試合を観て、「日本人には、日米野球など、そういう機会だけに限って販売されたコカ・コーラの味が、格別だった」と書いている。 「真っ白な紙」というのも、よくわかる。 当時の小学生の使っていたノートなどは、ザラ紙に近い黄色いような紙だったのだ。 メモリアル・ホールと呼ばれていた両国の国技館で、相撲見物の進駐軍の兵隊の食べていたパンの白さも、印象的だった。

 そういえば、日比谷の東京宝塚劇場は「アーニー・パイル劇場」だった。 アーニー・パイルは、「ワシントン・デイリー・ニュース」紙の記者から、第二次世界大戦の従軍記者となり、1944年にピューリッツァー賞も受賞したが、1945年4月に従軍先の沖縄伊江島で戦死した。 アメリカ軍統治時代の那覇に、琉球列島米軍政府と琉球政府の協力で「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が建設されたことから、この劇場のある通りが「国際通り」と呼ばれるようになったのだそうだ。

(戦後のスポーツや大リーグ等について、小人閑居日記2006.3.20.~3.25.と、2008.2.5.~2.10.に関連の記述があります。)