「明治の世に男女対等契約結婚」 ― 2023/09/15 07:10
実は堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』(あさを社・2015年)は、刊行時に恵贈頂いていて、2016年10月に下記を書いていた。 その内、明治23(1890)年の第一回衆議院議員総選挙で当選した伊香保の木暮武太夫が慶應義塾出身で、堤さんの祖父・寛敏の妹・清(きよ)と「結婚契約書」によって結婚しているので、その二編を再録することにした。
堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』<小人閑居日記 2016.10.15.>
県庁所在地が高崎でなく前橋になった事情<小人閑居日記 2016.10.16.>
楫取素彦県令の食言で県都争奪騒動<小人閑居日記 2016.10.17.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「結婚契約書」と福沢諭吉<小人閑居日記 2016.10.19.>
市民が支えた明治高崎の発展<小人閑居日記 2016.10.20.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「明治の世に男女対等契約結婚」というのが、堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』の第25話である。 ほぼ全文を引いて、紹介したい。 堤さんの祖父・寛敏の妹・清(きよ)は、父の金之亟が下仁田戦争で討死した時は母の胎内にあり、半年後の慶應元(1865)年に誕生、父親代わりの長兄寛敏に「これからも女子でも新しい学問を」と送り出され、数え14歳で群馬県選抜生として東京女子師範学校(現お茶の水女子大)に入学した。 同期に信州松本藩士多賀努の娘春子がいて、清は大変可愛がられた。 五歳年長だった春子は、卒業後早々と鳩山和夫(早稲田専門学校長、鳩山一郎元首相の父)と結婚。 春子との縁から、清は卒業後鳩山家に寄寓して幼児教育を研究。 明治17(1884)年に帰郷し、次兄辰二が校長を務める高崎第一尋常小学校(現中央小学校)に赴任。 児童教育の傍ら開誘室(高崎幼稚園の前身)創設に尽力、開室と共に幼児教育に専念する。
清は明治20(1887)年、22歳の春、鳩山和夫の媒酌で小暮篤太郎と結婚した。 小暮家は伊香保温泉で「子(ね)の小暮」と呼ばれる安土桃山時代以来続く名門旅館で、代々武太夫を襲名し、篤太郎は二十四代目だった。 万延元(1860)年に生れ、12歳の時に東京へ出て新しい学問習得に励み、福沢諭吉の家僕として慶應義塾に学んだ。 福沢の諭しにより家業に戻り、温泉街の改革発展に尽くす。 一方、25歳の若さで県会議員に当選し、在任中廃娼論を唱え、先ず伊香保温泉の湯女(ゆな)廃止を断行し、日本最初の廃娼県とした。 結婚後、衆議院議員として活躍する。
名門を継ぎ旧弊の改革を成し遂げる新進気鋭の武太夫と、家老家格の家に生れたが父を戦で失い、秩禄奉還で厳しい生活を強いられていた清。 二人の立場は、客観的には玉の輿の様ながら男女同権の約束を交わしての結婚であった。 結婚契約書は、互いに配偶者になることから始まり、結婚は終身継続すべきことで共に離婚を求めない。 旧来の「七去(しちきょ)」という些細な理由で夫が一方的に追い出す離婚は、今日の法律・道徳上許されないと周囲に宣言。 夫婦の関係は最も親密であることを要し、親族その他何人からも干渉させないよう努めること。 婦権尊重の約束を取り交わし、契約項目の対等に加え、互いに署名捺印し二通作成して各自が所持するという、進歩的な知識人の契約で当時の新聞紙上を大いに賑わしたという。
「結婚契約書」の写真を見ると、鳩山和夫は「証人 鳩山和夫」と署名捺印した「証人」の横に“witness”と書いている。
堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』<小人閑居日記 2016.10.15.>
県庁所在地が高崎でなく前橋になった事情<小人閑居日記 2016.10.16.>
楫取素彦県令の食言で県都争奪騒動<小人閑居日記 2016.10.17.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「結婚契約書」と福沢諭吉<小人閑居日記 2016.10.19.>
市民が支えた明治高崎の発展<小人閑居日記 2016.10.20.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「明治の世に男女対等契約結婚」というのが、堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』の第25話である。 ほぼ全文を引いて、紹介したい。 堤さんの祖父・寛敏の妹・清(きよ)は、父の金之亟が下仁田戦争で討死した時は母の胎内にあり、半年後の慶應元(1865)年に誕生、父親代わりの長兄寛敏に「これからも女子でも新しい学問を」と送り出され、数え14歳で群馬県選抜生として東京女子師範学校(現お茶の水女子大)に入学した。 同期に信州松本藩士多賀努の娘春子がいて、清は大変可愛がられた。 五歳年長だった春子は、卒業後早々と鳩山和夫(早稲田専門学校長、鳩山一郎元首相の父)と結婚。 春子との縁から、清は卒業後鳩山家に寄寓して幼児教育を研究。 明治17(1884)年に帰郷し、次兄辰二が校長を務める高崎第一尋常小学校(現中央小学校)に赴任。 児童教育の傍ら開誘室(高崎幼稚園の前身)創設に尽力、開室と共に幼児教育に専念する。
清は明治20(1887)年、22歳の春、鳩山和夫の媒酌で小暮篤太郎と結婚した。 小暮家は伊香保温泉で「子(ね)の小暮」と呼ばれる安土桃山時代以来続く名門旅館で、代々武太夫を襲名し、篤太郎は二十四代目だった。 万延元(1860)年に生れ、12歳の時に東京へ出て新しい学問習得に励み、福沢諭吉の家僕として慶應義塾に学んだ。 福沢の諭しにより家業に戻り、温泉街の改革発展に尽くす。 一方、25歳の若さで県会議員に当選し、在任中廃娼論を唱え、先ず伊香保温泉の湯女(ゆな)廃止を断行し、日本最初の廃娼県とした。 結婚後、衆議院議員として活躍する。
名門を継ぎ旧弊の改革を成し遂げる新進気鋭の武太夫と、家老家格の家に生れたが父を戦で失い、秩禄奉還で厳しい生活を強いられていた清。 二人の立場は、客観的には玉の輿の様ながら男女同権の約束を交わしての結婚であった。 結婚契約書は、互いに配偶者になることから始まり、結婚は終身継続すべきことで共に離婚を求めない。 旧来の「七去(しちきょ)」という些細な理由で夫が一方的に追い出す離婚は、今日の法律・道徳上許されないと周囲に宣言。 夫婦の関係は最も親密であることを要し、親族その他何人からも干渉させないよう努めること。 婦権尊重の約束を取り交わし、契約項目の対等に加え、互いに署名捺印し二通作成して各自が所持するという、進歩的な知識人の契約で当時の新聞紙上を大いに賑わしたという。
「結婚契約書」の写真を見ると、鳩山和夫は「証人 鳩山和夫」と署名捺印した「証人」の横に“witness”と書いている。
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