文耕の夜講『深川吉原つなぐ糸は紫』、その前半 ― 2024/08/04 07:16
文耕は匿名で、『富賀川堤三本桜』を新乗物町にある藤兵衛と藤吉兄弟の貸本屋から出した。 惣助に紹介されて、以前から筆耕の仕事を廻してもらっていた店だった。 以来、二人、特に藤吉は、文耕に浮世草子や談義本などの読物を書くことを強く勧めるようになっていた。 惣助に講釈の場をみつけてもらったとき、講釈師としての名前を、筆耕屋にひっかけて文耕とつけた。 読物を出すことになり、どこの馬の骨ともわからない筆耕屋という自虐の意味を込めて、馬文耕(ばぶんこう)と名乗ることにした。 釆女ヶ原の見世物小屋で定期的に講釈をするようになったとき、もっともらしい姓をつけたほうがいいと藤乃屋の市兵衛に勧められ、馬場文耕と名乗るようになった。 釆女ヶ原には、ちょうど馬場があったからだ。
馬文耕という名前を出し、気質物(かたぎもの)としての『世間御旗本容気(かたぎ)』をはじめとして、先代将軍吉宗と幕閣を中心とした人間模様『近代公実厳秘録』などを書いた。
お六に「怪動」で捕まった妹分の小糸のことを頼まれた文耕は、吉原の俵屋に赴き、小三郎にそのことを頼んだ。 十日後、十蔵長屋に来た小三郎は、小糸を無事に下げ渡してもらえたこと、榑正町(くれまさちょう)の井筒屋という小間物屋を借り夜講の手筈を整えたので、講釈を頼むという。 小糸は、お六が美登里になったように、芸者むら咲となるそうだ。 文耕は、小糸がお六と一緒に富岡八幡宮に参り、境内の鳥屋の小鳥を一両で逃がした話や、手習いを教えていた子供が堀に落ちて大工に助けられたことなどから、一つの作り話『深川吉原つなぐ糸は紫』を拵えた。
店と住まいの座敷をぶち抜いた講釈場には、客がぎっしり詰め掛け、百人近くいるようだ。 里見樹一郎の姿もあった。 薬種問屋の手代浩吉が、暮れの掛取りに行き、三十二両の大金を持って油堀に差しかかると、老婆が「助けて、助けて!」と叫び、幼い子が溺れている。 浩吉は、下帯ひとつになると、胴巻を着物で隠すようにして、近くの男に頼み、飛び込んで男の子のところまで抜き手で進み、腕をつかむと、男の子は力を抜き、浮き身の姿勢を取るようにしたので、一瞬、この子は泳げるのではないかと思ったが、河岸に腹這いになったひとりの男が手を差し伸べ、子供を助けることができた。 安心すると、急に真冬の川の水が氷のように肌に突き刺さってきた。 町の木戸番らしい老人が掻巻でくるんでくれた。 胴巻の場所まで、人垣をかき分け、走った。 頼んでおいた男の姿はなく、草履の上に小袖はあるが、帯を解いて、襦袢を叩いたが、胴巻がない。 「ああーっ!」と悲鳴を上げる。 取り囲んだひとりが、その男なら、婆さんと男の子と一緒にあっちに向かった、と富岡八幡宮の方を指さした。 言われて気がつくと、いつの間にか、助けを求めていた老婆も、男の子もいなくなっている。 そして、あの男の子が、実は泳げるのではないかという気がしたことを思い出して、もう一度悲鳴を上げてしまった。
狂ったように三人を捜し求めた。 三人は影も形もなく消えていた。 いまになれば、あの三人がぐるだったのだとわかる。 愚かな自分はその企(たくら)みに引っ掛かり、大事な大事な金を盗まれてしまった。 三十二両もの大金だ、もう死んでお詫びするしかないと、浩吉は思い詰めた。 そのとき、死ぬ前にやっておきたいことはないか、思い残すことはないか、自分の心をのぞき込むようにして考えた。 ひとりの女の顔が浮かんできた。
以前、一度だけ薬種問屋の主人に深川仲町の料理茶屋に連れていってもらった。 番頭の暖簾分けの祝いの席だった。 何人かの芸者の唄と踊りのなかで、地唄の「狐会(こんかい)」をうたった芸者のことが忘れられなくなった。 浩吉が慣れない酒に酔って、茶屋の座敷に寝かされていて、枕元で団扇を使ってやさしく扇いでいてくれたのが、「狐会」の芸者小糸だった。 死ぬ前に、あの小糸という芸者に会いたい、そしてもう一度だけあの唄を聞かせてもらいたい、と思った。 浩吉は、仲町の料理茶屋に行き、小糸を呼んでもらいたいと頼んだ。 一目だけでもという必死さにほだされた茶屋のおかみが、小糸に事情を伝えた。 座敷をお六姐さんにまかせて、付け替えてもらった小糸は、浩吉から一部始終を聞き、「狐会」をうたった。 耳を傾けていたが、最後の「こがれ焦がるる憂き思ひ」に至ると、浩吉の眼から涙が溢れ出た。
唄い終え、三味線と撥を畳の上に置いた小糸が、静かに頭を下げた。 「唄わせていただき、ありがとうございました」
最近のコメント