元禄地震 房総沖巨大地震と大津波<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>2/12発信2024/02/12 07:10

 能登半島地震が発生する前日発行の大冊、古山(こやま)豊編著『元禄地震 房総沖巨大地震と大津波』を、『雷鼓』を出しておられた岩本紀子さんから頂いた。 古山豊さんは、千葉県大網白里市在住の県立御宿高校や東金高校校長を務められた方で、40年以上前の昭和56(1981)年に勤務先に近い茂原市鷲巣の鷲山寺(しゅうさんじ)で「元禄津波供養塔」に出合って以来、元禄地震の研究を続けてきた。

 赤穂浪士の吉良邸討入の翌年、元禄16(1703)年12月31日に発生した元禄地震は、江戸初期から今日までの約400年間で、房総半島に最大の被害(死者6千人超、90%以上が津波による溺死)をもたらした。 にもかかわらず、この地震に関する新史料の発掘は少なく、霧に閉ざされた地震の一つとして研究する学者も限られていたという。 古山さんは、地の利があり、地域の「市町村史」に精通、県内各地の沿岸沿いを徹底的に調査し、新史料を多数発掘(石碑、古文書等100点以上)、私家本3冊にまとめ、東京大学地震研究所等にも送付した。 『理科年表』は大正14(1925)年初版以来、簡略だったこの地震の記載が、令和3年版では「元禄の関東地震」相模・武蔵・上総・安房で震度大、特に小田原城下は全滅、全体で死者約1万、潰家2万2千等と詳しくなった。

 元禄地震は、真冬の真夜中に発生、津波は3度襲来、九十九里浜南部5~6mの津波、鰯の豊漁期で沿岸滞在者多数が溺死、地曳網の被害甚大、沿岸の村々は約2/3が浸水、田畑の塩土を除くのに3~5年、それでも元に戻らず生活困窮、安房では山崩れ被害。

 この地震の第一級史料は、柳沢吉保の公用日記『楽只堂(らくしどう)年録』で、房総の被害が13頁にわたって、この本に紹介されている。 吉保の父、安忠は三代将軍家光に上総国市袋(いちのふくろ)に知行地を賜り、三歳の綱吉の守役となった。 吉保の母は、その市袋の名主の娘きの、行儀見習いで柳沢家に上がっていて安忠の手がついたという。 吉保を生むと、すぐ実家に戻り、佐瀬家に嫁ぎ、男児をもうける。 夫に先立たれ、さらに儒者の大沼林斎に再嫁して男児を生む。 林斎は、荻生徂徠の父方庵の弟子で、徂徠と机を並べて学んでいた。 吉保は、18歳から綱吉に近侍し、23歳で綱吉が五代将軍になると小納戸役となる。 母きの女を引き取り、異父弟二人は吉保に仕え、柳沢姓を許され、重臣となる。 元禄元年31歳で側用人、1万2千石余の大名となる。 元禄7年、7万2千石余の川越城主、元禄9年、荻生徂徠を召し抱える。 吉保は、異例の昇進により悪辣な策謀家とされるが、善政で領民に慕われ、綱吉の好学に添い学問・教養の面でも優れていた。 元禄地震の翌年、甲州15万石に封じられる。

 能登半島地震に際し、「温故知新」元禄地震は多くの教訓を残している。

「墓じまい 社会で考えるとき」2024/01/26 07:09

11月の「等々力短信」第1173号に、 徳川慶喜家の「墓じまい」を書いた。(ブログは11.16.発信) すると、自分の家は子供がいないとか、娘だけなので、考えなければならないとか、実際に墓じまいをしたなどという反響が多かった。 12月18日の朝日新聞朝刊には、「墓じまい 社会で考えるとき」の見出しで、11月27日配信の朝日新聞デジタルの記者サロン「墓じまいを考える」が、行われたことを報じた。 連載「大名家の墓じまい」を書いた森下香枝記者は、先に「『無縁遺骨』を追う」という連載をしていて、連載に大幅に加筆した『ルポ 無縁遺骨 誰があなたを引き取るか』(朝日新聞出版)を11月に出版していた。

 高齢化や核家族化が進むなか、お墓の管理ができない、家の後継ぎがいないなどの事情から「墓じまい」をする人が増えているが、引き取り手のない「無縁遺骨」の増加も深刻化しているという。 一昨年夏に俳優の島田陽子さんが亡くなったのだが、遺体の引き取り手がなく、行政によって荼毘にふされたことが、森下記者が「『無縁遺骨』を追う」連載のきっかけになった。

 その秋には皇室ジャーナリストの渡辺みどりさんが自宅で「ひとり死」し、一線で活躍した人々も、こういうかたちで亡くなることがあるのだと驚いて、本格的に取材を始める。 一人暮らしで身寄りがなかった渡辺さんの場合、死亡届を出すのもひと苦労だったそうだ。 死後数日たって発見されたため「異状死」として解剖され、希望した献体もかなわなかったし、遺言書はあっても想定外のことが多々あって、「想定外」への備えも必要なのだ、と教えられたという。 ただ、一周忌では多くの友人たちが非常に明るく渡辺さんの話をされていて、家族はいなかったけれど、皆から慕われ、きちんと見送られたのはよかったと思ったそうだ。

 行政のとりくみでは、横須賀市は身寄りのない一人暮らしの人などを対象に、死亡届人の確保や葬儀・納骨の生前契約を支援する事業を導入しており、「終活登録」を受け付けている自治体もあるが、こうした事例はまだ限られているという。

 1月中旬からは、森下香枝記者の新たな連載「自然に還る 変わる葬送のかたち」(全5回)も始まった。(朝日新聞デジタルでは12月22日から全て読める)

等々力短信 第1175号は…2024/01/25 07:02

<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>無性に知りたい芋づる式 は、1月19日にアップしました。 1月19日をご覧ください。

ある画家の自画像、野見山暁治自伝2024/01/23 07:10

 昔、野見山暁治さんの自伝『一本の線』を読んで、「等々力短信」に「ある画家の自画像」を書いていた。 最近の「日曜美術館」が、二人の妻に先立たれた、と言っていたことにも、少し触れていた。 父親の年齢から、長生きの家系だということもわかる。

    ある画家の自画像 等々力短信 第533号 1990(平成2)年6月5日

 その人の父親は、九州の遠賀川流域の炭坑地帯で、地主の三男に生れた。 その辺りが、ゴールドラッシュの夢にわいていた頃で、どうしても炭坑をやって、一旗あげたいと考えた。 わずかな元手で、まず質屋を始める。 それで資金をつくろうという遠大な計画だったが、そのうちに炭坑の利権をカタにして金を借りに来た人がいた。 渡りに船と、ほうぼうから借金をして、貸す金を作り、炭坑に手を染めた。 天性の行動力と弁舌と、それらを具現化した体格と容貌を誇る、その父親は、手に入れた炭坑の事業を、大きく軌道に乗せようと燃えていた。 ところが、九大の工学部へ入れて、炭坑の跡をつがせるつもりにしていた長男が、中学卒業を前に「絵描きになりたい」と言いだしたのだ。

 画家、野見山暁治さんの自伝、『一本の線』(朝日新聞社)である。 「あとをつがせるべき長男をそんな訳の分からぬ道楽者にさせてたまるか。これが父の本音だった。父に限らない。これは世の中のホンネで、親戚や知人の子供たちが絵描きになりたいと言いだせば、ぼくもぞっとする」。 でも、野見山さんは上京して、美術学校に入った。 十七歳のその年から、戦争の時代をはさんで、二十七歳までの十年間の青春が、確かな、手応えを感じる、信頼できる「線」によって、描かれている。

 画家の、鋭い目が、光る。 たとえば、クロッキー研究所に通って、モデルの「おおっている着物を脱ぎ捨てる瞬時の羞じらいだけが女の姿だと思えるようになってきて、その一瞬を捉えるために、ぼくはその時だけを待つようになっている」

 自伝は、むずかしい。 どれだけ自分を「まるはだか」にして、語ることができたか、にかかってくるからだ。 ひとは、おおむね、自分の失敗や弱点を語りたがらない。 結局は、自慢話と、自己弁護になってしまう。 そうした制約から自由な、ごくまれな自伝だけが、成功する。 『福翁自伝』を、ひきあいに出すまでもなかろう。 野見山さんはみごとに成功した。 それは、かなりの痛みを、ともなうものだったはずである。

 百歳まであと二、三年という父親が寝たきりになり、末の妹が世話をしている福岡の家で、野見山さんは、この本を書いた。 あとがきに「女と出会い、女と別れてゆくいきさつは、いくら年を経てもやはり同じ屋根の下にいる親には秘めておきたい。それどころか、妹がお茶を持ってきてくれるたびに、あわてて原稿を伏せる始末だ」とある。 三人の女性との「いきさつ」を描いたことが、『一本の線』を本物にした。

無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>1/19発信2024/01/19 07:04

   無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>

 「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった。 今村翔吾さんが朝日新聞に連載している『人よ、花よ、』に出てきた。 楠木正成の子、多聞丸正行(たもんまるまさつら)を描いた小説なのだが、高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことが、時々、舞台回しとしての女を登場させる。 このたびは、相貌、躰付き、声色、全てが師直好みの、羽林家のとある公家の娘、齢二十七、その手を掴んで引き寄せようとした。 そこへ、「兄上!」と師泰が、楠木正行の楠木党が決起したと知らせてきたのだ。

 「羽林家」を『広辞苑』で引く。 「中世以降、公卿(くぎょう)の家格の一つ。大臣家に次ぐ。大納言、中納言、参議にまで昇進でき、近衛中・少将を兼ねた家柄。四辻・中山・飛鳥井(あすかい)・冷泉・六条・四条・山科などの諸家があった。」

 「公家(くげ)」を引くと、その(3)「公卿(くぎょう)(1)に同じ」とあり、そこには「公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議および三位以上の朝官)との併称。上達部(かんだちべ・かんだちめ)。月卿。卿相。月客。俗に「くげ」とも。」

 「羽林家」が「大臣家に次ぐ」というので、「大臣家」を見る。 「摂家・清華(せいが)に次ぐ家柄。内大臣から太政大臣まで昇ることができるが、近衛大将を兼ねることはできない。藤原氏の正親町(おおぎまち)三条、三条西、および源氏の中院(なかのいん)の三家をいう。三大臣家。」

 「摂家」は、「摂関家」に同じ。 「摂関に任じられる家柄。古代・中世を通じて、藤原一族中の北家、特に初代摂政の良房の子孫に限られ、鎌倉初期には近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家に分かれた。一家(いちのいえ)。執柄家。」

 「清華(せいが)家」は、「公卿の家格の一つ。摂関家に次いで、大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることができる。主に七家(転法輪三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門(おおいみかど)・今出川(菊亭))を指す。室町時代には10家あった。江戸期には広幡・醍醐の両家を加えて9家。英雄。英雄家。華族。」

 芋づる式に、公家の家格は、「摂関家」「清華家」「大臣家」「羽林家」の順になる。 では、百姓で関白になった秀吉は、どういう手を使ったのか、新たな疑問が湧く。

 加藤秀俊さんの『隠居学』(講談社)に、こうあった。 おや、なんだろう、なぜこうなっているのだろう、という疑問をもつと無性に知りたくなるものなのだ。 それは野次馬根性、あるいは好奇心というやつで、「知りたい」という欲求、およそ知的探究という行為に「目的」なんぞありはしない。 学問というものは、おおむねゆきあたりばったりの、偶然の知的発見の連鎖以外のなにものでもない、と。