「千年雛めぐり」の雅叙園へ、行人坂を下る2024/02/20 07:09

福岡・飯塚 座敷雛(説明は明日)

 ホテル雅叙園東京の「千年雛めぐり~平安から現代へ受け継ぐ想い~百段雛めぐり2024」へ、家内と行って来た。 三田あるこう会で、ご一緒する極小雛道具研究家の川内由美子さんにチケットを頂いていた。 雅叙園は久しぶりに行ったので、行人坂(ぎょうにんざか)の急なことに、あらためて驚いた。 年を取ったせいもある。 坂の上には兄が住んでいたし、等々力の家をリフォームした時に、坂の下の目黒川沿いのマンションに短期間住んだこともあった。

 行人坂の名は、寛永年間(1624~44)に、出羽三山の一つ湯殿山の行者、大海法印がこの閑寂な坂の中腹に大日如来堂(現在の大円寺)を建て修行を始め、次第に多くの行者(行人)が集まったことに由来するという。 江戸時代には坂上から富士山がよく見える富士見の名所だった。 最大斜度20%、平均斜度は約15.6%。 江戸時代初期は白金台から祐天寺、二子玉川方面への表本道で、のちに出来る権之助坂を新坂、行人坂を旧坂と言った。  目黒駅前の信号から目黒川までの距離を地図で測ると、権之助坂下の新橋までは550メートル、行人坂下の太鼓橋までは350メートルで、行人坂がいかに急坂なのかが分る。

 この辺りは、江戸時代の二つの大火と関係がある。 「目黒行人坂の大火」は、大円寺から出火、火は南西の風に煽られて麻布、芝から江戸城諸門を焼き、さらに京橋、日本橋、神田方面から浅草、新吉原へと広がり、千住まで届き江戸中を焼く大火になった。 明和9(1772)年2月29日に起ったので、「めいわく」な大火と言われた。

 雅叙園前に「お七の井戸」がある。 本郷追分の八百屋お七は、天和2(1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。 吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ27年間、隔夜一万日の行を成し遂げたといわれる。 場所は近いが、「目黒行人坂の大火」より時代が早く、二つの火事に関係はない。