2万人、ほとんどが市井の人々を見捨てる ― 2006/09/28 07:35
栗林忠道陸軍中将が硫黄島に向けて出発したのは、昭和19年6月8日。 妻・ 義井(40)、長男・太郎(19)、長女・洋子(15)、次女・たか子(9)の5人家族は、 井の頭線東松原駅に近い一軒屋に住んでいた。 太郎の記憶では、出発の前日、 栗林は家じゅうに棚を吊って回った。 硫黄島からの手紙でも「お勝手の隙間 風」を防ぐ措置をしてこなかったのが残念と書いたのを始め、生活の細部につ いてこまごまとしたアドバイスを書き送っている。
硫黄島での日本軍の戦死者は2万129名。 この島で戦ったほとんどの将兵 が職業軍人でなく市井の人々だった。 農民、商店主、サラリーマン、教師、 そして出陣学徒。 それぞれの故郷で普通の生活を営んでいた人たちが召集さ れ、この島に送られたのである。
当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえ2万の兵力を投入した。 そ れが、まさに米軍上陸近しという時期になって、一転「価値なし」と切り捨て た。 その結果、硫黄島の日本軍は航空・海軍戦力の支援をほとんど得られぬ まま、孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった。
昭和20年3月7日、栗林忠道は大本営へ今後の教訓とすべき報告、戦訓電 報の最後のものを打った。 硫黄島の状況を「生地獄」と書き、陸海軍の縄張 り主義を批判し、その一元化を進言(この部分は防衛庁防衛研修所編纂の公刊戦 史でも削除されているそうだ)、彼我の物量の差が余りにもかけ離れていて、結 局戦術も対策も施す余地のなかったことを述べている。 異例のことだが、そ の電報は、元直属教官だった蓮沼蕃(しげる)侍従武官長にも宛てられていた。 翌日、蓮沼侍従武官長は、木戸内大臣と面談する。 だが陸海軍双方の首脳に よる会談を経て、3月26日、杉山元陸軍大臣は、陸海軍統帥一元化は困難であ る旨の結論を天皇に上奏した。
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