舟越保武さんの「ダミアン神父」2016/05/02 06:26

 「等々力短信」第1082号「私」を受け容れて生きる』に、さっそく質問が あった。 志木の高校から一緒で、通信社を勤め上げ、大学で教えたりしてい た男である。 短信に登場した「ダミアン神父とは、もしやハワイのモロカイ 島だったかに幽閉されていた人々と一緒に同じ島で暮らす道を選んだ神父のこ とでしょうか。明日、末盛さんの本を買います」と、いうのだった。

 私は、すぐさま、『舟越保武画文集 巨岩と花びら』(筑摩書房・1982年)の 一文「病醜のダミアン」と、そこにあるデッサンと彫刻「ダミアン神父」の写 真をコピーして、彼に送った。

 舟越保武さんの文章によると、ダミアン神父(1840~1889)はベルギーの人 である。 当時は癩(ハンセン病)を根治する薬が発見されていなくて、患者 は治療を受けるというよりも、むしろ隔離されるだけだった。 ハワイ諸島の モロカイ島の小さな半島も、癩患者の隔離に使われていた。 ダミアン神父が そこの病院に、自ら志願して宣教師として赴いたのは1873年で、33歳の時で あった。 ここに来ることは、当時ではほとんど死を意味することだったろう、 と舟越さんは書いている。 頑固な性格と一部で言われるほど、直情径行な熱 血漢だったようだ。

 しかし、神父が癩患者達に向って、どんなにいたわりと同情の言葉をかけて も、ほとんど聞かれなかったと想像できる。 生きながらにして全身が腐って いくこの患者達にとって、神父の説教など空々しく思われて、聞く気持になれ ないことは解るような気がする。 それは神父のその時の「貴方達、癩者は」 という言葉に大きな意味がある。 どんなに同情し病人と共に涙を流したとし ても、所詮、神父は癩者ではない。 癩者にとってこの違いは、無限の隔たり を意味する。 ダミアンはこのことについて悩みつづける。 自分も同じ癩者 にならない限り、この島に来た宣教の目的は達せられないと悟った。

 患者の治療にも食事にも進んで彼等に接触して、病の感染を怖れず、むしろ 早く自分も癩者になることを望んだとしか、考えられない行動が記されている。  ダミアンが発病するのにほとんど十年もの時間があった。 癩はこのように、 伝染力の極めて弱いものであり、潜伏期間も永いと言われる。

 ある日ダミアンは、あやまって煮えたぎる熱湯を足にこぼしたが、足は熱さ を感じなかった。 ダミアンの癩は始まっていた。 ダミアンの顔や手にいよ いよ癩特有の徴候が現れた時、彼は初めて患者達に向って「我々癩者は」と言 うことが出来た、と喜んで語ったと記されている。 十年かかってダミアンの 悲願は達せられたことになる。 ダミアン神父はこのあと数年にして、この島 で死んだ。 十五年間、一度も母の住むベルギーに帰ることがなかった。

 舟越保武さんは、『救癩の使徒ダミアン神父』(小田部胤明著)という本の中 にある一枚の写真に強く捉えられた。 顔も手も癩結節のために崩れ、ぷくぷ くに脹れ上がった神父ダミアンの、ぞっとするほど醜い姿は、鬼気迫るものだ った。 眉が抜け落ちて、鼻も口も腫れ上がり、顔一面に小さな結節が現れて いて、発病前の神父のキリッとした整った顔の美青年の写真とくらべると、と ても同じ人とは思えない。 ダミアンは「この写真は母に見せないで下さい」 と言ったと、書いているそうだ。 舟越さんは、十年以上も自分の中に鮮明に 焼きついていたこの姿を、彫刻にしようと思った。 これ以上崩れることは出 来ないとさえ思われるこの顔の中に、美とか醜とか、そんなものを超えた強い 気品を覚えたからである。 誰に頼まれたわけではない。 自分でこの姿を作 って、自分で持っていたかったからだ、と書いている。

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