明治大正、船の恩返し<等々力短信 第1093号 2017.3.25.> ― 2017/03/25 06:34
2011年3月11日の東日本大震災から、6年が経った。 末盛千枝子さんが 代表を務め、被災地の子供たちに絵本を届ける活動をしている「3.11 絵本プロ ジェクトいわて」が先月27日、第3回「エルトゥールル号からの恩返し 日本 復興の光大賞17」の特別賞を受賞した。 この賞は日本トルコ文化協会が被災 地の復興に尽力している民間団体から特に優れた団体を顕彰、応援するものだ。 明治23(1890)年9月16日、オスマン帝国軍艦が紀伊半島沖を航行中、台風 に遭い、座礁・沈没して、乗員656名のうち生存者わずか69名、しかも重傷 者多数という大事件があり、その時、日本人が負傷者の手当てを始め、国を挙 げて示した献身的な救助活動をトルコの人たちが未だに忘れず、今回の震災に 際して、恩返しをしようと設けた賞なのだそうだ。
エルトゥールル号沈没事件、私は福沢に関連して知っていた。 福沢は早く も9月20日の『時事新報』で「土耳古軍艦沈没の悲惨」と題して義捐金の募 集を呼び掛けた。 義捐金は一気に4,248円も集まり、フランの為替証書にし て、生存者を母国に送還するに当たり、時事新報社からも野田正太郎を派遣し、 オスマン帝国海軍省を訪れ遺族救済委員会に手渡した。 明治23年9月に和 気清麻呂肖像入りの十円札が発行されているが、現在の価値は十万円以上だそ うだから、4,248円は4千2百万円以上になる。
たまたま「開運! なんでも鑑定団」の古美術鑑定家・中島誠之助さんの『俳 枕・草枕・腕枕』(本阿弥書店)を読んだら、こんな話があった。 北陸の古い 女友達に北室南苑という篆刻家がいる。 ロシアのサンクト・ペテルブルグで 個展を開催したら、初老の婦人に「キタムロさんは、ムロランという人の親戚 ですか」と声を掛けられた。 一世紀も昔のロシア革命時代、内戦のペトログ ラードを逃れ、極東のウラジオストックまで疎開した800人の子供たちがいた。 この町に革命の火の手が及ぼうとした時、幼い命を救ったのが日本の貨物 船陽明丸だった。 ひとまず北海道の室蘭に寄港し態勢をととのえてから、地 球一周の大航海をして、ロシアの隣国フィンランドに子供たちを届けた。 そ の子孫にあたる婦人、オルガ・モルキナさんが、祖父に聞いたムロランの発音 を頼りに北室さんに尋ねたのだ。 そして二年間にわたる探索努力の結果、当 時の神戸の船会社も判明し、オルガさんの希望した船長の墓参りも実現したの は2011年のことだった。 北室さんは現在NPO法人「人道の船陽明丸顕彰会」 理事長の任にあり、大正時代の秘められた人類愛を伝えているという。
中島さんは篆刻に関して、文字は紙に書くものでなく、石に刻むものだった、 紙の発明は石材の加工よりずっと後で、紙の前にあった木簡、竹簡は伝達の文 書で、事蹟の記録は石に刻んだと説く。
「…にもかかわらず」杉原千畝と肥沼信次 ― 2017/03/25 06:36
杉原千畝(1900~1986)が、第二次世界大戦中、駐リトアニア領事代理とし て、ナチスの迫害を逃れようとリトアニアに殺到し、亡命を求めるユダヤ系ポ ーランド人難民に、ナチスとの外交関係を考慮した外務省の反対にもかかわら ず、日本通過ビザを発給し、6,000人ものユダヤ人の命を救った話は、映画『杉 原千畝 スギハラチウネ』(2015年)にもなって、よく知られている。
2月5日、たまたま日本テレビで「ドイツが愛した日本人」という番組を見 た。 第二次世界大戦後のドイツで、発疹チフス患者の診療に力を尽くし、多 くの命を救い、自らも若くしてこの世を去った日本人医師がいたのだ。 その 人の名は、肥沼信次(こえぬま のぶつぐ・1908~1946)、大戦前夜の1937(昭 和12)年、アインシュタインに憧れて放射線医学の研究者を志し、29歳で名 門ベルリン フンボルト大学に留学した。 研究は進んでアジア人初の教授資格 を得るところまでになるが、大戦の戦況が悪化して、それも消えてしまう。 大 使館から帰国指示が出たにもかかわらず、ドイツに残った肥沼は、大戦後ベル リンを離れ、ドイツ北東部、ポーランドとの国境に近い古都ヴリーツェンへ行 く。 ヴリーツェンでは当時、発疹チフスが猛威を振るっていた。 ヴリーツ ェンにドイツ占領ソ連軍が創設した伝染病医療センター初代所長となり、十分 な医療体制も、薬もない中、肥沼は発疹チフスに苦しむ人々の治療に献身し、 たくさんの命を救った。 薬を求めて、ベルリンに行ったりもしている。 し かし、自身も発疹チフスに罹り、1946(昭和21)年3月8日、37歳で死去し た。 死の直前、「日本の桜が見たい」と言い残したという。 東京の八王子で 外科医をしていた父・肥沼梅三郎は1944(昭和19)年7月に亡くなっており、 その最期を看取ることもできなかった。
番組では、俳優の佐々木蔵之介が、ヴリーツェンを訪れ、肥沼信次の足跡を たどった。 市長を始め、肥沼医師といっしょに仕事をした看護婦や、祖父を 救ってもらったという少年に会い、肥沼の献身的な働きぶりや、彼に対する感 謝の気持を聞いた。 今は市庁舎となっている建物の地下にあった伝染病医療 センターの部屋や、肥沼信次の墓も訪れた。 ヴリーツェン市は1992年、肥沼に名誉市民の称号を与えたという。
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