福沢諭吉と朝鮮〔昔、書いた福沢35〕2019/03/16 07:18

   福沢諭吉と朝鮮<等々力短信 第377号 1985.(昭和60).12.15.>

 明治時代の朝鮮に、「金玉均」という人がいた、といえば、若い女性は「ウッ ソー」と言うかもしれない。 嘘だと思うなら、『広辞苑』で「きんぎょくきん」 をご覧なさい。 その金玉均、福沢諭吉と、深いかかわりがあった。

 福沢諭吉は、1880年代、西欧列強によって清国や朝鮮が侵略され、植民地化 されることになると、日本にもまた、その害が及ぶと、ドミノ倒しを恐れてい た。 そして、惰眠をむさぼっているかに見える清国は、あきらめるにしても、 朝鮮については、ひと足先に、文明開化の道を歩きはじめた日本が、支援する ことによって、独立国として列強の脅威からまぬがれさせることができるので はないか、と考えた。 まず明治14(1881)年、朝鮮の日本視察団の内2名 を、留学生として慶應義塾に迎え入れた(日本への最初の外国人留学生)、以来、 たくさんの朝鮮からの留学生が、慶應で学んでいる。

 金玉均は、早くから世界の大勢を知り、開国進取の志をいだいていた開明派 の大官であったが、日本視察団の報告を受けると、自らも日本を見たくなり来 日、翌年3月福沢諭吉と会見する。 福沢は、金玉均の人物を愛し、天現寺の 別邸(今の幼稚舎のところ)に起居させ、政府高官や各界名士を紹介して、日 本の朝鮮に対する態度と方針を研究させた。 金玉均は、滞在数か月、日本は 信頼できる友邦であるとの確信を得て、帰国の途についたが、釜山行の船を待 っていた下関で、壬午軍乱の報に接する。

 この乱についての日本への謝罪使一行(金玉均もその一員)からの要請をう けて、福沢は朝鮮に学事顧問として、門下生の牛場卓蔵、井上角五郎らを送っ た。 福沢のすすめで発行されることになった朝鮮政府の官報『漢城旬報』(朝 鮮最初の新聞)の編集を、その井上角五郎が、引き受けることになる。 創刊 早々の明治16(1883)年12月、福沢は井上への手紙の中で、漢文だけの旬報 を早く漢字・朝鮮仮名まじり文にするように指示し、「日本にても古論を排し たるは独り通俗文の力とも申すべく」と書いた。 明治18(1885)年に井上 の創始した「漢字・ハングルまじり」の新文体が、やがて普及し、今日朝鮮の 新聞雑誌に普通の文体として用いられていることは、特筆すべきことであろう。

(註1・1990年代以降の新聞はハングル専用で、漢字は補助表記になっている ようだ。/註2・2019年2月26日の朝日新聞朝刊の記事に、日本統治下の1919 年3月1日に起きた「3・1独立運動」から100年、その宣言書(韓国にも数 少ない)の一枚が長崎に現存していたとある。冒頭部分の写真があるが、漢字・ ハングル交じり文である。)

 金玉均は、明治17(1884)年日本の支援も得て、甲申のクーデターを起こ したが失敗、日本に亡命した。 清国の思惑を意識して冷淡になった日本政府 とは違い、福沢は金玉均を自邸にかくまうなど、一貫して支援の態度を変えな かった。