買い出し電車の地獄、〈手入れ〉〈検問〉2021/02/13 07:06

 永井荷風の『問はずがたり・吾妻橋 他十八編』(岩波文庫)は、長編「問はずがたり」の上の巻が昭和19年12月戦争中の脱稿なだけで、あとはすべて昭和20年8月15日の敗戦後の作品になっている。 そこで戦争直後の、世相や生活、人情が色濃く描かれている。 当時まだ幼児で詳しいことを記憶していない私などには、時代の記録として、貴重なものではないかと思われる。

 昭和23(1948)年1月の短編「買出し」は、「船橋と野田との間を往復している総武鉄道の支線電車は、米や薩摩芋の買出をする人より外にはあまり乗るものがないので、誰言うとなく買出電車と呼ばれている。」と、始まる。 東武野田線、今はアーバンパークラインというおしゃれな名前になっている路線である。

 そこを走っていた電車は、「車は大抵二、三輌つながれているが、窓には一枚の硝子もなく出入口の戸には古板が打付けてあるばかりなので、朽廃した貨車のように見られる。板張の腰掛もあたり前の身なりをしていては腰のかけようもないほど壊れたり汚れたりしている。一日にわずか三、四回。昼の中(うち)しか運転されないので、いつも雑踏する車内の光景は曇った暗い日など、どれが荷物で、どれが人だか見分けのつかないほど暗淡としている。」という状態だった。

 この雑踏した買出電車が朝十時頃のこと、列車が間もなく船橋の駅へ着こうという二ツ三ツ手前の駅に来かかるころ、誰が言出したともなく船橋の駅には巡査や刑事が張込んでいて、持ち物を調べるという警告が電光の如く買出し連中の間に伝えられた。 どこでもいいから車が駐(とま)り次第、次の駅で降りて様子を窺(うかが)い、無事そうならそのまま乗り直すし、悪そうなら船橋まで歩いて京成電車へ乗って帰るがいいと言うものもある。 乗客の大半は臆病風に襲われた兵卒も同様、男も女も仕度を仕直し、車が駐るのをおそしと先を争ってプラットフォームへ降りた。

 10日に85歳で亡くなったTBSテレビの演出家で社長室顧問の鴨下信一さんに、『誰も「戦後」を覚えていない』という文春新書(2005(平成17)年)がある。 「殺人電車・列車」の章、「買い出し列車の地獄」に〈手入れ〉と〈検問〉の話があった。

 「帰りの列車がまた本当の地獄だった。人間だけでもいっぱいなのに、荷物が加わって二倍になる。怒号と悲鳴。職業的カツギ屋の荷物はあのでっかいのが二箇も三箇もある。/途中で〈手入れ〉がある。武装警官は、巻きゲートルにピストルまで手にしている。これが列車をとりかこんで全員降車が命令される。そうすると、あの大きな荷物が手渡しで警官のいない側に渡され、窓から放り出される。すでにそこに待機していた仲間が、それをまたどこかへ素速く持って行く。関係のないシロウトの乗客も手伝わないわけにはいかない。こうした狂乱と混乱がしじゅうあった。/〈手入れ〉がなくても〈検問〉があって、カツギ屋でないぼくたちも安心できない。野菜類はお目こぼしがあったが、米はもちろん、イモも容赦なく没収された。/ヤミを一切せず、買い出しも家族に厳禁して栄養失調で命を落とした東京地裁の山口良忠判事のような人もいたが、一般の庶民はこれまた命がけで買い出し列車に乗っていた。」