ハリスの国際法(万国公法)による主張 ― 2021/04/16 06:53
ハリスは江戸出府を待ちながら、和親条約の改定にあたり、安政4(1857)年5月には9カ条の「下田協約(日米約定)」を結んだ。 その第1条では、日米貨幣の交換は同種類のもの同量で行なうこと、第3条では、犯罪人の処分はアメリカ人についてはアメリカの法律によってアメリカ領事が行なう、という領事裁判権(治外法権)が認められていた。 のちの「日米修好通商条約」に盛られる不平等条項は、すでにこの「下田協約」にうたわれていたことになる。
江戸出府の許可を得て、安政4年10月7日に下田を出発したハリス一行だが、10日、箱根の関所の通過で一悶着あった。 同行した支配組頭、若菜三男三郎(みなさぶろう)が、毛利や島津のような大名でも、この関所では点検を受けるのだと、点検を受けさせようとした。 ハリスは、自分はアメリカ合衆国の代表者であるから、国際公法上の特権を有する、と点検を拒んだのだ。 いわゆる外交官特権だ。 その特権が、箱根の関所の役人によって無視されるなら、下田に引き返すと、二時間余り交渉して、ついに点検を受けずに関所を通過した。
15日、ハリス一行は宿舎に定められた九段下の蕃書調所に入った。 目付の岩瀬忠震とともに「日米修好通商条約」交渉の全権委員となる井上清直が、「攘夷論者が危害を加えると困るから市中を歩きまわらないように」と申し入れると、ハリスは「自分の身体の自由は、日本の国法によって制限されるべきものでない」と拒絶した。 しかたなく護衛を強化して凶徒の侵入を防ごうとしたら、ハリスは、自分は守備兵を連れずに江戸に来た、適当な護衛を置くことは構わないが、外国使節の居住地は領事館などと同じく、治外法権の対象となるので、こちらの要請があってはじめて護衛すべきだ、と主張した。 数度のやりとりがあって、6月に阿部正弘が亡くなり、老中首座になっていた堀田正睦が、「ハリス側の要請なしには一人の護衛も送らない」という一札を入れた。
箱根の関所の通過、そしてこの護衛問題、ハリスはその主張の根拠を国際法(万国公法)においていた。 この問題は、すぐあとの「日米修好通商条約」の締結にあたっての大前提となるのである。
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