コロナ禍、浅草経営者の苦闘が身に沁みる ― 2021/04/01 07:13
昨日の「小三治さんの休養で、思い出したこと」に、会社を畳んだ頃のことを書いた。 それには、3月27日のNHKスペシャル『浅草、遠い春を待ちながら 下町経営者と信用金庫』を見たせいもあった。 新型コロナ禍で、苦闘する浅草の経営者と地元の信用金庫に、2020年秋から密着した番組だった。
釜飯の「麻鳥」には、行ったことがあった。 注文を聞いてから炊き上げるので時間がかかる、ちゃんと作っているのがわかって、味にも満足した。 ほかに「蔵」(炭火焼会席)と、息子さんが関わる「月見草」(シーフード・モダン・フレンチ・レストラン)の、二店もやっている。 店主の雑賀(さいが)昭裕さん、年末年始の繁忙期なのに売上が極端に減り、いっぱいまで借りた緊急融資では資金不足が予想されて、頭を抱える。 朝日信用金庫浅草雷門支店、宝達(ほうだつ)弘一支店長に相談すると、返済をせずに利息だけ払う10年の資本性ローンの提案を受け、経費削減の事業計画書の提出を求められる。 税理士にも相談して、役員報酬削減は当然とする事業計画書を出すと、跡継ぎ息子の存在も決め手の一つになって、令和13年1月21日までの資本性ローンを借りることができた。 宝達支店長は、返済のない資本性ローンで信用金庫もリスクを負う、「浅草さん」に賭けると話す。 「麻鳥」は、再度の緊急事態宣言で2月28日まで休み、3月1日から営業を再開した。
ご存知、「常盤堂雷おこし本舗」、雷門横の本店は浅草寺の支院の土地だそうだ。 社長の穂刈久米一さんは、220年の歴史のある店を、33歳で継いだ、店は命より大事だという。 先代は、本店と浅草寺裏に建てたゴロゴロ会館だけは、人手に渡すなと言って亡くなった。 従業員120名、一貫生産の大宮工場は立派な設備だ。 雷おこしの販売は、コロナ禍で年配の方の浅草詣でが減ったのが痛い、正月の売上も伸びなかった。 大宮工場は4割稼働、ゴロゴロ会館に団体の観光バスが来ず、ホールも興行がない、物販がなく食堂もホコリをかぶっている。 穂刈さんは、朝日信用金庫に決算報告に出向き、事業を縮小して、大宮工場の生産をゴロゴロ会館に移す、従業員は守ると、頭を下げた。
『青天を衝け』浜田弥兵衛(やひょうえ)、台湾事件 ― 2021/04/02 07:10
渋沢栄一を描いた大河ドラマ『青天を衝け』の題名だが、「衝け」「衝く」という言葉に馴染がなかった。 題名を打つ(書く)のに、初め、衝突を出して突を消した。 「衝(つ)け」とフリガナのあったのに引きずられたのか、「衝つ(うつ)」と読み違えて、『青天を衝つ』とやってしまった。 <小人閑居日記>の2月23日に書き、以後はコピーしたので、2月24日と3月5日も、『青天を衝つ』と書いた(気がついた後、訂正した)。 いつも誤植の揚げ足を取っていて、この渋沢栄一関連では「夢七訓」に原典がないことを深谷市にまで質問したりしたのに、自分で、このミスはまことに恥ずかしい。
『青天を衝け』は、渋沢栄一が安政5年に尾高惇忠と信州に旅した際に詠んだ(第7回「青天の栄一」「紀行」によると栄一の「巡信紀詩」所収、JR中込下車の内山峡に詩碑)、「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」、青空を突き刺す勢いで肘をまくって登り、白雲を突き抜ける気力で手に唾して進む、という意味の漢詩から取ったのだそうだ。 間違えたから言うわけではないが、難しい上に、読みにくい。 もっと良い題はなかったのか。
『青天を衝け』の第4回「栄一、怒る」で、栄一が海外に雄飛した山田長政や浜田弥兵衛(やひょうえ)に憧れる場面があった。 山田長政は、小学生の時に伝記を読んで知っていたが、浜田弥兵衛を知らなかった。
『広辞苑』【浜田弥兵衛】は、「江戸初期の長崎の貿易商で、長崎代官末次平蔵の朱印船船長。1625年(寛永2)台湾に渡航したが、オランダ総督に妨害され、28年武装した470名の乗組員を率いて渡台、総督に謝罪させ、その子を人質として帰国(台湾事件)。生没年未詳。」とあった。
『日本大百科全書(ニッポニカ)』【浜田弥兵衛】は、「生没年不詳。江戸初期の朱印船貿易船船長。江戸初期、日本の輸入品中最大の中国産生糸は、おもに中国商人との台湾での出会(であい)貿易によりもたらされていた。しかし1624年(寛永1)オランダは台湾にゼーランディア城を築いて根拠地として以来、日本の貿易船に対し新たな課税を行うなど、圧迫干渉を加えるようになった。25年長崎代官末次平蔵の朱印船船長として弥兵衛が台湾に渡航した際、長官マルティヌス・ソンクはその貿易を妨害したので、彼は同地の住民を連れて帰り幕府に訴えた。その後オランダ側の事情説明のため新長官ヌイツが大使として来日したが、目的を果たせず帰った。28年、弥兵衛は、平蔵の持船二隻に貿易資金のほか多くの武器・火薬を積み、470人の乗組員を率いて、武力に訴えても貿易を強行する意志で台湾に渡った。ヌイツは弥兵衛を城内に抑留し、貿易も差し止められた。しかし弥兵衛らは機をうかがい、逆にヌイツを捕らえ人質としたので、オランダ側と和議が成立し、同年7月長崎に戻った。幕府もオランダの態度に不満を持ち、来日オランダ船の抑留、蘭館の封鎖、貿易禁止などを行い緊張したが、オランダ側が32年責任者ヌイツを幕府に引き渡すなどして事態は好転し、貿易も再開された。弥兵衛とその子新蔵は、その後島原の乱に際して功をたて、のち新蔵は細川家に仕官した。[沼田 哲]」と、詳しい。
他の事典の異同箇所。 『マイペディア』「(ゼーランディアを)ゼーランジア(安平(アンピン))、ヌイツを捕らえて長崎に連れ帰り、カロンの通訳により談合の末和解、幕府は弥兵衛が連れ帰ったオランダ船を抑留したため、日蘭貿易は1632年まで禁止された。」 『山川 日本史小事典』「タイオワン(台湾の外港安平(アンピン))」 『日本歴史大事典』「肥前国大村の人。1627年オランダ人の乱暴を訴えるため、台湾の新港(シンカン)社の住民を日本に伴い、幕府に訴えた。」
『日本歴史大事典』【台湾事件】、「1624年(寛永元)~1632年に起こった台湾貿易をめぐる日蘭間の紛争。当時台南(台湾)は朱印船の主な渡航地だったが、ここにゼーランディア城を建てたオランダ人は、港湾建設費がかかったとして、1624年にこの港からの輸出品に10%の輸出税を課した。日本人がその支払いを拒否すると、オランダの台湾長官ソンクは日本人の買い入れた生糸を押収。長崎代官であり朱印船貿易家でもあった末次平蔵はこれを幕府に訴えた。オランダは弁明のため1627年に特使ノイツを日本に派遣したが完全な失敗に終わった。翌年、朱印船末次船の船長浜田弥兵衛とノイツの暴力ざたでオランダ人人質が肥前国大村の牢獄に監禁された。この事件解決に派遣されたメイランは3年近く江戸に滞在し、平戸の大名松浦隆信(まつらたかのぶ)の取次ぎで辛抱強く交渉。事件は、日本人の気質を熟知する総督スペックスが、責任者としてノイツを日本側に引き渡すという判断を下し解決した。老中土井利勝を中心とする閣老は、これはオランダが将軍の家臣として忠誠を示したものと認めたのである。こののち、オランダは日本に勤務する商館長に、東アジアに十分な経験をもち円満な人格の人物を選ぶなど気を配った。「将軍の家臣としてご奉公する」はオランダ人が繰り返す表現となったが、これが鎖国下、ヨーロッパ諸国のなかでオランダだけが日本との貿易を許される一因となった。<永積洋子>」
『青天を衝け』を間違えておいて、言いにくいのだが、蛇足を一言。 初めに引いた『広辞苑』【浜田弥兵衛】の「総督に謝罪させ、その子を人質として帰国」だが、「その子を人質」と『日本大百科全書』や『日本歴史大事典』にない部分もあり、どうしてこういう記述になったのか、短さの制約ばかりでない、疑問が残った。
玉泉寺のハリス顕彰碑、タウンゼンドとタウンゼント ― 2021/04/03 06:59
大河ドラマ『青天を衝け』第6回「栄一、胸騒ぎ」の「紀行」で、下田の玉泉寺のハリスの顕彰碑を渋沢栄一が建てたこと、本堂の銅板葺きの屋根を寄進したことをやっていた。 ハリスは、12月28日の<小人閑居日記>に「永井荷風と広尾光林寺ヒュースケンの墓」、29日に「ヒュースケンの暗殺、光林寺での葬儀」に書いた通訳ヒュースケンを伴って、安政3(1856)年に下田玉泉寺に着任、3年間下田や江戸で交渉を重ね、安政5(1858)年横浜での日米修好通商条約の調印に至った。 渋沢栄一が、日米というか日本の通商を開いたハリスの功績を称えて、ハリスの顕彰碑建立に尽力したことを、ぜんぜん知らなかった。 昭和2(1927)年10月1日、除幕式に参列した87歳の渋沢栄一は、「封建制専制から立憲国に、また資源乏しい国ながら産業・貿易も盛んになったのは、ハリスのお陰」と演説したそうだ。
それをハリスの顕彰碑で検索した、渋沢栄一記念財団のホームページでは、「タウンゼンド・ハリス記念碑建設」(渋沢栄一伝記資料)となっていた。 ずっとタウンゼント・ハリスだと思っていたのだが、「タウンゼンド・ハリス」(Townsend Harris)だった。 だが『青天を衝け』は「ハルリス」「タウンゼント・ハリス」であり、ウィキペディアも「タウンゼント・ハリス」である。 そういえば昔、エリザベス女王の妹のマーガレット王女の恋人が、タウンゼント大佐という名前だった。 マーガレット王女は10代の終わりから20代の初めに、父のジョージ6世の侍従武官だったピーター・タウンゼント大佐を恋した。 しかし、16歳年上で、離婚歴のある大佐との結婚を、英国国教会が許さず、英国国教会の首長であるエリザベス女王も立場上認めることができなかった。 で、ずっと当時の報道の通り、タウンゼント大佐だと思ってきたのだが、タウンゼンド(Townsend)だったらしい。
最近の百科事典を見ると、タウンゼントはなく、みなタウンゼンドになっている。 イギリスの児童文学評論家・作家ジョン・タウンゼンド、物理学者サー・ジョン・エドワード・タウンゼンド、詩人オーレリアン・タウンゼンド、政治家チャールス・タウンゼンド父子、アメリカの医師フランシス・タウンゼンド。 いったい百科事典がTownsendのDを、「ト」でなく「ド」と表記するようになったのは、いつ頃からだったのだろうか。
『まいにち養老先生、ときどき まる』スペシャル ― 2021/04/04 07:33
テレビばかり見ているようだが、巣籠りでテレビばかり見ているのだ。 一昨日も城島茂、国分太一、松岡昌宏の三人が株式会社TOKIOをつくったというニュースを見て、「長瀬智也は辞めたんだ。プロレスに行ったんだ」と言った。 若い人は、テレビは見ない、新聞は読まない、というが、巣籠りでも、スマホやパソコンを見ているのだろうか。
3月13日放送の『まいにち養老先生、ときどき まる』スペシャル(永井朝香ディレクター)を見た。 猫の「まる」は、18年前に養老先生のところに来て、2020年12月に死んだ。 番組は、「まる」がいた頃の、養老先生と「まる」に密着している。 養老先生はつぶやく。 養老先生のつぶやきは深遠、難解で、当方は「バカの壁」にさえぎられるから、そのまま書くほかない。 「人間はたちがいい、消えるもん。」 「くよくよ考えても、しようがない。」 「ボケーーっと、だいたい寝ている。」
友人の生物学者、池田清彦さんが来て、養老先生はゾウムシの解剖をやっている話をする。 大きな顕微鏡で覗くと、細部が何とも絶妙につくられていることがわかる。 人間の眼が、「見えるのは1割。9割は脳味噌で見ている。」
〇東慶寺の墓地。 「人間は不安と折り合わなきゃあいけない。墓は「よすが」、記憶」だと、養老先生。 そこで、『広辞苑』で「よすが」【縁・因・便】を引く。 (1)ゆかり。たより。えん。 (2)夫・妻・子など頼みとする相手。よるべ。手がかり。 (3)物事をするのに、たよりとなること。手がかり。 養老先生は、5歳の誕生日の前に父を亡くした。 「自分」の死はない。 死は二人称。 「知り合い」の死だけ、感じる。
〇大塔宮(おおとうのみや・護良親王)鎌倉宮。 6月に入院した。 83歳。10㎏以上痩せた、検査で引っ掛かって「心筋梗塞」と判明、手術をした。 運がよかった。 テレビの画面にお地蔵さんが五つ、地味なお迎え。 ついて行けば、死んでいた。 よく、寝る。
〇安国論寺。 日蓮が建長5(1253)年に開山。 元寇(文永11(1274)年、弘安4(1281)年)の前、不安な時代。 平安から鎌倉へ。 平安は、情報化社会、頭の時代、時間が経っても変わらない。 『方丈記』は変わる(人生は無常、諸行無常)、鎌倉は、身体の時代、考え方の前提が変わる。 どんどん変わっていく。 年を取ると、頭の時代から、身体の時代へ。 今(現在)は、頭の時代、だんだん身体のことを考えるようになる、健康に。 自分は「存在自体が、不要不急」。
人間にはドーパミン回路があって、報酬系(欲求が満たされたときや満たされるとわかったときに活性化し、快い感覚をもたらす)。 予測がずれると、活性化する。 新しいものを、追いかける、“More”モア。 それが、やがて恋愛から生活になるように、“Here & Now”「今、ここ」、日常に切り替わる。 現在を受け入れる喜び。
足立真穂(編集者)『新潮』「コロナの認識論」担当が来る。 「参勤交代」は二拠点、場所依存と先生はおっしゃつていたけれど、「まる目線で生きる」を書くのは、どうですか、と提案。 〇文化は裏。 文化は解毒剤。 入って来るものを、変えてやる。 対人から、対物へ。 ビル、アスファルト、車から、花鳥風月へ。
「西暦・和暦 もうだいじょうぶ公式」 ― 2021/04/05 07:02
『暮しの手帖』11 spring 2021 4-5月号に、佐藤雅彦さんが連載「考えの整とん」に「西暦・和暦 もうだいじょうぶ公式」を書いている。 令和になって3年、「長年、西暦・和暦の変換に苦しんできた日本の同胞よ、喜んでくれ給え、少なくとも、2029年・令和11年までは、もうこのことで悩むことはないのである」、佐藤式西暦・和暦変換の公式を発見したというのである。
西暦の下二桁の数字を足し算すると、令和の年号になる。
2021年は、2+1=3だから令和3年。 2022年は、2+2=4だから令和4年。
公式は「20ab年は、令和a+b年。」で、2029年・令和11年まで有効だ。
私などは明治、大正、昭和、平成、西暦より和暦の方が、だいたいの年代を考えやすいので、文章を書く時、「明治14(1881)年」と和暦を書いて()で西暦を入れるようにしている。 長く、手帳の末尾にある年齢早見表に、江戸末期からの分を足して使ってきた。 最近は、スマホのアプリにある「年号電卓Plus」というのを便利にしている。
手帳やスマホが手元にないと、佐藤式のような、暗算もやる。 和暦を西暦に変換するのは、それぞれの元年(明治は1868年、大正は1912年、昭和は1926年、平成は1989年)から1を引いて、明治は+67、大正は+11、昭和は+25、平成は+88が公式だ。 政変のあった明治14年は、14+67で1881年。 関東大震災の大正12年は、12+11で1923年。 二・二六事件の昭和11年は、11+25で1936年。 長野オリンピックの平成10年は、10+88で1998年というやり方だ。
西暦を和暦に変換するのは、逆に引き算、明治は-67、大正は-11、昭和は-25、平成は-88が公式だ。 1881年は、81-67で明治14年。 1923年は、23-11で大正12年。 敗戦の1945年は、45-25で昭和20年。 東日本大震災の2011年は、11-88で暗算がちょっと難しいが、平成23年となる。
令和は、元年が2019年だから、和暦を西暦に変換するのは+18、西暦を和暦に変換するのは-18となる。 令和3年は、3+18で2021年。 2022年は、22-18で令和4年。 これだと、2029年・令和11年を過ぎても、2030年は30-18で令和12年となるから、佐藤式西暦・和暦変換公式より有用だと思うが、いかがだろう。
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