『青天を衝け』浜田弥兵衛(やひょうえ)、台湾事件2021/04/02 07:10

 渋沢栄一を描いた大河ドラマ『青天を衝け』の題名だが、「衝け」「衝く」という言葉に馴染がなかった。 題名を打つ(書く)のに、初め、衝突を出して突を消した。 「衝(つ)け」とフリガナのあったのに引きずられたのか、「衝つ(うつ)」と読み違えて、『青天を衝つ』とやってしまった。 <小人閑居日記>の2月23日に書き、以後はコピーしたので、2月24日と3月5日も、『青天を衝つ』と書いた(気がついた後、訂正した)。 いつも誤植の揚げ足を取っていて、この渋沢栄一関連では「夢七訓」に原典がないことを深谷市にまで質問したりしたのに、自分で、このミスはまことに恥ずかしい。

 『青天を衝け』は、渋沢栄一が安政5年に尾高惇忠と信州に旅した際に詠んだ(第7回「青天の栄一」「紀行」によると栄一の「巡信紀詩」所収、JR中込下車の内山峡に詩碑)、「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」、青空を突き刺す勢いで肘をまくって登り、白雲を突き抜ける気力で手に唾して進む、という意味の漢詩から取ったのだそうだ。 間違えたから言うわけではないが、難しい上に、読みにくい。 もっと良い題はなかったのか。

 『青天を衝け』の第4回「栄一、怒る」で、栄一が海外に雄飛した山田長政や浜田弥兵衛(やひょうえ)に憧れる場面があった。 山田長政は、小学生の時に伝記を読んで知っていたが、浜田弥兵衛を知らなかった。

 『広辞苑』【浜田弥兵衛】は、「江戸初期の長崎の貿易商で、長崎代官末次平蔵の朱印船船長。1625年(寛永2)台湾に渡航したが、オランダ総督に妨害され、28年武装した470名の乗組員を率いて渡台、総督に謝罪させ、その子を人質として帰国(台湾事件)。生没年未詳。」とあった。

 『日本大百科全書(ニッポニカ)』【浜田弥兵衛】は、「生没年不詳。江戸初期の朱印船貿易船船長。江戸初期、日本の輸入品中最大の中国産生糸は、おもに中国商人との台湾での出会(であい)貿易によりもたらされていた。しかし1624年(寛永1)オランダは台湾にゼーランディア城を築いて根拠地として以来、日本の貿易船に対し新たな課税を行うなど、圧迫干渉を加えるようになった。25年長崎代官末次平蔵の朱印船船長として弥兵衛が台湾に渡航した際、長官マルティヌス・ソンクはその貿易を妨害したので、彼は同地の住民を連れて帰り幕府に訴えた。その後オランダ側の事情説明のため新長官ヌイツが大使として来日したが、目的を果たせず帰った。28年、弥兵衛は、平蔵の持船二隻に貿易資金のほか多くの武器・火薬を積み、470人の乗組員を率いて、武力に訴えても貿易を強行する意志で台湾に渡った。ヌイツは弥兵衛を城内に抑留し、貿易も差し止められた。しかし弥兵衛らは機をうかがい、逆にヌイツを捕らえ人質としたので、オランダ側と和議が成立し、同年7月長崎に戻った。幕府もオランダの態度に不満を持ち、来日オランダ船の抑留、蘭館の封鎖、貿易禁止などを行い緊張したが、オランダ側が32年責任者ヌイツを幕府に引き渡すなどして事態は好転し、貿易も再開された。弥兵衛とその子新蔵は、その後島原の乱に際して功をたて、のち新蔵は細川家に仕官した。[沼田 哲]」と、詳しい。

 他の事典の異同箇所。 『マイペディア』「(ゼーランディアを)ゼーランジア(安平(アンピン))、ヌイツを捕らえて長崎に連れ帰り、カロンの通訳により談合の末和解、幕府は弥兵衛が連れ帰ったオランダ船を抑留したため、日蘭貿易は1632年まで禁止された。」 『山川 日本史小事典』「タイオワン(台湾の外港安平(アンピン))」 『日本歴史大事典』「肥前国大村の人。1627年オランダ人の乱暴を訴えるため、台湾の新港(シンカン)社の住民を日本に伴い、幕府に訴えた。」

 『日本歴史大事典』【台湾事件】、「1624年(寛永元)~1632年に起こった台湾貿易をめぐる日蘭間の紛争。当時台南(台湾)は朱印船の主な渡航地だったが、ここにゼーランディア城を建てたオランダ人は、港湾建設費がかかったとして、1624年にこの港からの輸出品に10%の輸出税を課した。日本人がその支払いを拒否すると、オランダの台湾長官ソンクは日本人の買い入れた生糸を押収。長崎代官であり朱印船貿易家でもあった末次平蔵はこれを幕府に訴えた。オランダは弁明のため1627年に特使ノイツを日本に派遣したが完全な失敗に終わった。翌年、朱印船末次船の船長浜田弥兵衛とノイツの暴力ざたでオランダ人人質が肥前国大村の牢獄に監禁された。この事件解決に派遣されたメイランは3年近く江戸に滞在し、平戸の大名松浦隆信(まつらたかのぶ)の取次ぎで辛抱強く交渉。事件は、日本人の気質を熟知する総督スペックスが、責任者としてノイツを日本側に引き渡すという判断を下し解決した。老中土井利勝を中心とする閣老は、これはオランダが将軍の家臣として忠誠を示したものと認めたのである。こののち、オランダは日本に勤務する商館長に、東アジアに十分な経験をもち円満な人格の人物を選ぶなど気を配った。「将軍の家臣としてご奉公する」はオランダ人が繰り返す表現となったが、これが鎖国下、ヨーロッパ諸国のなかでオランダだけが日本との貿易を許される一因となった。<永積洋子>」

 『青天を衝け』を間違えておいて、言いにくいのだが、蛇足を一言。 初めに引いた『広辞苑』【浜田弥兵衛】の「総督に謝罪させ、その子を人質として帰国」だが、「その子を人質」と『日本大百科全書』や『日本歴史大事典』にない部分もあり、どうしてこういう記述になったのか、短さの制約ばかりでない、疑問が残った。

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