攘夷運動のシンボル斉昭とバイブル水戸学『新論』2021/04/14 07:07

 そのあたりの歴史を、改めて考えてみたいと、「日本の近代1」松本健一著『開国・維新』(中央公論社)の「攘夷と尊王」の章を読み返した。

 幕末というのは、ペリー来航(1853年)から明治維新(1868年)に至るまでの、わずか15年間にすぎない。 その15年間の激動における最初のベクトルが「攘夷」であり、それは幕府がペリーの砲艦外交によって、やむをえずではあれ「開国」への道を選びとった、反動、つまりアンチテーゼの意味をもっていた。 だとすれば、「攘夷」をいうことは、終(つい)には、「開国」路線をとった幕府に対する否定へとむすびついていかざるをえない。 そのことを明快に察知していたのは、幕末の政治を実際的にリードしてきた薩摩藩の西郷隆盛だった。 だが幕末という時間の中では、幕府が一時攘夷路線を鮮明にしたこともあった。 西郷の師とよんでもいい島津斉彬の場合は、まだ幕府を中心に攘夷策をとることが可能だと考えていた。 その攘夷策のために、オランダの力を借りて科学技術の開発や産業振興を行うこととし、また攘夷家のシンボルであった水戸の徳川斉昭を海防の責任者に据えるべきだと考えた。

 攘夷運動の最先端に立っていたのは、徳川斉昭をシンボル的存在とする水戸藩だった。 これは、水戸藩の領海に外国船が姿を現わし始め、文政7(1824)年には藩領の大津浜(水戸北方の交易港)にイギリス捕鯨船員が薪水を求めて、大挙上陸した事件をきっかけにしていた。 幕府は翌文政8(1825)年異国船無二念(むにねん)打払令を出した。 その年、前年の大津浜上陸事件の際、筆談役を務めた水戸藩の史館総裁代役の会沢正志斎(あいざわせいしさい、安(やすし))が海防に目覚めて『新論』を書いた。 水戸学はもともと、徳川光圀の『大日本史』編纂にさいして成立した、儒学的な名分論で、その本質は、日本の歴史をかえりみることによって名分(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)を正し、日本における名分としての「尊王」思想をうちだすところにあった。 会沢正志斎の『新論』は、藤田東湖の『弘道館記述義』(弘化4(1847)年)とともに、後期水戸学を代表する思想で、大津浜事件をきっかけとする、西洋列強の東アジア侵略に対する危機意識によって、時務論(いま何をなすべきか)の性格をおびた「尊王攘夷論」へと変質する。 西洋列強が東アジア侵略をおこなっているという現状認識が不可欠で、その認識のもとに、日本みずからが「富国強兵策」を講じ、長期的には「人民を強化」すべきこと。 そのためには国家がついにその「頼むべきものは何か」として、我が国の「国体」を明らかにしなければならない、というのである。 『新論』は幕末攘夷運動のバイブルとなる。 徳川斉昭は、藤田東湖と会沢正志斎が積極的に動いたことで藩主となり、攘夷運動のバイブル『新論』と、シンボル的存在斉昭の結びつきが、ここに生まれた。

 会沢正志斎の『新論』を読んだ吉田松陰は、ペリー来航の一年半前、嘉永4(1851)年から翌5年にかけて、水戸まで会沢に会いに来る。 松陰は当時、数え22歳、会沢は70歳に達していた。 若き松陰は、70翁会沢の素直な人柄、「聴くべきもの」があればすぐに「筆を把」る学習欲に関心し、自分が日本の歴史に暗かったこと、「吾今にして皇国の皇国たる所以を知れり」、いわば〝日本〟に目覚めるのだ。 会沢『新論』の国体論はまだ、異国船無二念打払令を出した幕府に対する擁護論、もしくは補強論だったが、吉田松陰の国体論(『講孟余話』安政3(1856)年)は、幕藩体制に対する革命論の意味をもつようになっていく。