丸家銀行、早矢仕有的、福沢と金原明善2022/06/20 06:59

 『福澤諭吉書簡集』第4巻906は、富田鉄之助が日本銀行副総裁で、福沢が破綻した丸家銀行の善後策について早矢仕有的案にかわるものを求めている書簡だった。

 丸善、丸家銀行については、坂井達朗さんが講義のなかで、詳しく説明した。 早矢仕有的は、天保8年生まれ(福沢より3歳年少)岐阜県武儀(むぎ)郡笹賀村(現山県市美山町)出身で、漢方を学んだ農村医。 先祖は戦国大名土岐氏の家臣、弓術の名人。 それで早矢仕有的の名、学才を惜しんだ庄屋高折善六のすすめで、安政6(1859)年江戸に出て、坪井信道に蘭方医学を、信道の弟、谷信教に英語(阿部泰蔵と同門)を学ぶ。 慶応3年谷塾廃止、慶應義塾に転じ福沢に入門。 明治元年、新政府から大学小助教の資格を認められ、横浜で医院を開業、傍ら医療品医薬品、外国書籍、文具の輸入・販売を兼営。 福沢のアドヴァイスで、名義人は丸屋(初めは地球の球(まる)屋、世間が「たまや」と読むので)善七を名乗る。 高折善六にちなむ架空の名前。 西洋文明の有形の部分を輸入・販売・製造(福沢は無形の部分)、小売業から次第に製造業、金融業に進出。 福沢に簿記・会計に詳しい中村道太を紹介され、その協力もあり急速に経営が拡大する。 従業員の面倒をみる共済組合から、明治12年無限責任丸家銀行を創立した。

 福沢は丸屋の経営に深くかかわった。 文明の商業者として早矢仕を高く評価、自らも多額の投資を行なった。 門下生の有力者、旧藩主層にも紹介、協力や出資を勧めた。 中村道太、福沢英之助、小幡篤次郎、朝吹英二、阿部泰蔵、穂積寅九郎、馬越恭平、近藤孝行(水野忠弘家扶)、奥平昌邁(まさゆき)。

 明治17年、丸家銀行の経営破綻。 ピークに達した松方デフレの影響だが、特に山形県朝日山地方の殖産政策、旧山形藩士の結社「六行社」の事業不振に、水野家との関係で頭取近藤孝行が個人的に融資していた債務を、丸家銀行に付け替えたのが焦げ付いた。 取付騒ぎとなる。

 丸家銀行の再建をめぐって、福沢と金原明善の緊密な協力関係があった。 金原は、浜松時代の水野家家臣団と取引し債権を持っていたと推定される。 丸家銀行の経営破綻は、金原の債権の回収を困難にした。 個人として多額の出資をしていた福沢、子供名義で出資、丸家銀行は特に有限責任制度でなかった。 事後処理のため、福沢と金原の間では、膨大な情報が交換されたはずだ。 多数の福沢書簡が保管されていた金原の東京の屋敷、第二次大戦中に防空壕で水損に遭い、廃棄。 『全集』は、一点のみ収録。

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