鎌倉の友達<等々力短信 第1164号 2023(令和5).2.25.>2023/02/21 07:01

 1月27日に97歳で亡くなった永井路子さんの文、松尾順造さんの美しい数々の写真で『鎌倉―中世史の風景』(1984(昭和59)年)という本がある。 白黒の岩波写真文庫の後、カラーの堅い表紙で出たIWANAMI GRAPHICSシリーズの一冊だ。 冒頭の「鎌倉開府」、「海をかかえた小さな集落が中世の夜明けを迎えるまで、波はおだやかな歌を歌い続けていたことだろう」、「ところがある日、突然この小さな土地が歴史の本舞台になる。12世紀の末に、源頼朝がここに入ってきたのだ。」「これを東の「くに」の誕生――と私は思っている。」「先進的な都を中心とした「西国国家」、「西」の搾取に甘んじてきた「東」が面(おもて)をあげていささかの権利を主張しはじめた――というのが、この動乱の本質なのだ。そう理解しなければ、真の「鎌倉」の意味はわからない。」

 高校に入って、鎌倉の扇ヶ谷(おおぎがやつ)から通って来る同級生の福原隆史君と、通学経路が重なり仲良くなった。 那須与一宗隆の末裔で、父上は大田原市佐久山に工房を持ち三越で個展をする陶芸家と聞いた。 扇ヶ谷の家は、山を背景にして広い庭を持つ山小屋風だった。 泊めてもらって、長谷の大仏近くの中華料理をご馳走になり、朝、鎌倉駅の裏駅まで走って登校したりした。 彼は家庭の事情で、慶應ラグビー草創期の大先輩のお祖父様、芸術家でろうけつ染めを教えるお祖母様と暮していた。 その関係で、冠婚葬祭など家の用事も務めているらしく、しっかりした大人びたところがあった。 彼が『マンハント』なんていう雑誌を読んでいたので、ハードボイルドの小説を知り、当時評判になった『ペイトンプレイス』をこっそり回し読みしたりした。

 大学受験のない自由な学校での高校一年生、振り返ってみれば、輝ける日々だった。夏休みには、新聞部でも一緒になったので、逗子から通って来るM君と三人、湘南の海で遊び、お知り合いの別荘のある北軽井沢に旅行した。 草軽電鉄に乗り、法政大学村の人は「お池」といっていた照月湖でボート遊びをし、鬼押出を歩いたりした。 冬には、岩原スキーロッヂのスキーヤーズ・ベッドに泊まって、夜間スキーもした。

福原君とM君は後年、辞書や受験雑誌で名高い出版社に就職、重要な役職を務めた。 初めから「短信」を読んでもらっていて、三冊目の私家本を出した時だったか、二人で会社の迎賓館のようなところに招待してくれ、夫婦で御馳走になった。 落語の会でたまたま会って以来、近年はご無沙汰だったが、ずっと「短信」は鎌倉市佐助に送っていた。 返信はなかったけれど、よい友達だという思いは変わらなかったからだ。

M君からの電話で、福原隆史君が1月23日に心筋梗塞で亡くなったと知った。 がっかりした。 高校時代を思い出して感謝し、わずかに自分を慰めている。

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