福沢諭吉、小泉信三、井筒俊彦と西田幾多郎2023/10/23 07:13

 円筒状の吹き抜け「ホワイエ」にぐるりと椅子を並べて、浅見洋館長のお話を聴く。 ガラスの天井では、作業の方がガラスを清掃している最中だった。 レジュメは、A4判の裏表に10.5ポイントでびっしり印刷されていた。 1.福沢諭吉と西田幾多郎、2.小泉信三と西田幾多郎、3.井筒俊彦と西田幾多郎。

1. 福沢諭吉と西田幾多郎。  西田幾多郎(1870(明治3)年-1945(昭和20)年)は、福沢の35年下。 福沢についての記述は、日記に2か所ある。 2月3日に福沢が亡くなった1901(明治34)年7月7日(木)、「福沢[諭吉]先生逝き先生が独立独行人によらすして事をなせしを思ひ深く感する所あり 大丈夫将(まさ)にかくの如くならさるへからさる也」。 西田は、この時31歳、学問で身を立てることができるか悩み、金沢卯辰山の洗心庵に通って座禅を組んだりしていた。 『時事新報』の発行趣旨(1882(明治15)年)、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(おしひろ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(いやしく)もこの精神に戻(もと)らざるものなれば、…亦(また)その相手を問わず一切敵として之を擯(しりぞ)けんのみ。」 『修身要領』、「心身の独立を全うし、自ら其身を尊重して、人たる品位を辱しめざるもの、之を独立自尊の人と云う」

 もう一つ、1932年3月25日(金)の日記、「午前星野[あい]氏を訪ひ岩波へ来る 終日ストゥブの側にて福沢[諭吉]伝(石河幹明『福沢諭吉伝』)をよむ」。

 2.小泉信三と西田幾多郎。 小泉信三は、西田の日記に8回、書簡にも10回名前がでており、小泉が西田をたびたび訪ねたことがわかる。 1939年12月11日、小泉が鎌倉の西田家を訪れ、慶應義塾での講演を依頼し、西田は翌年9月と10月に6回、慶應義塾で講演した。 1944年10月29日付の岩波茂雄宛書簡に、「今度文教(文部省)の顧問に小泉氏がなられた様子誠に喜んで居る。小磯首相が神がかりの様故〇〇〇でもないかと心配してゐたが」。

3.井筒俊彦と西田幾多郎。 若松英輔は「NHK100分de名著」『善の研究』(2019年10月)で、こう述べた。 『善の研究』によって日本近代哲学が始まったといわれる。 事実なのだが、『善の研究』の出現によって、西洋哲学に引けをとることのない哲学的探究の場が日本に開かれた、いうべきだ。 その前にから、日本にも哲学的探究の営みがあった。 夏目漱石の『草枕』の第一章などは、小説の形をとった「詩の哲学」、「詩学」といってよい内容を含んでいる。 西田の真の後継者といえる井筒俊彦(1914-93)は、短歌にも哲学的思索のあとを見ることができると述べている。

 『井筒俊彦全集』(2016年完結)推薦のことば。 梅原猛「日本の哲学者がほとんど研究しないイスラーム哲学を掘り下げ、それによって西田幾多郎の行なった東西哲学の統合を試みた井筒俊彦氏の思想的冒険は、驚嘆に値する。氏の著作の中に、戦後の日本の最も深い哲学的思弁があると言えよう。」

浅見洋館長は、井筒俊彦の著作と、井筒俊彦の研究書の出版に関して、慶應義塾大学出版会の活動を高く評価した。 哲学は西洋のものと考えられるが、井筒俊彦は、イスラムや仏教や日本にも哲学はあったとする、世界哲学。 世界の話題になっている大きな研究者。 井筒俊彦の哲学を世界の中で位置づけることが、これから大きな意味を持っている。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック