折口信夫・春洋父子の墓2023/10/24 07:07

氣多大社

 西田幾多郎記念哲学館の興味深い展示を、残念ながら時間の関係でざっと見て、千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイへ。 バスが穏やかな日本海の砂浜に下りて、波打ち際を走るのだ。 細かい砂なのだろう、乗用車もバイクも走っている。

 羽咋(はくい)市一ノ宮町の折口信夫(しのぶ)・春洋(はるみ)父子の墓へ。 折口信夫(1887(明治20)年-1953(昭和28)年)、筆名釋迢空は、国文学、民俗学、芸能学、言語学を研究し、1921(大正10)年國學院大學教授、1928(昭和3)年慶應義塾大学教授を兼任、一方、歌人として独自の歌風を確立した。 藤井春洋は、1907(明治40)年羽咋に氣多大社の社家で眼科医を営む家に生れ、國學院大學で折口信夫の指導を受け、やがて師の家に内弟子として同居。 1941(昭和16)年、國學院大學予科教授に就任するが、数度の召集を受け、1942(昭和17)年7月、硫黄島に着任、折口の養子となるが、1945(昭和20)年3月17日に戦死した。

 戦死の報を受けても信じられなかった折口だが、1948(昭和23)年9月春洋の死を受け入れ、羽咋の藤井家の墓に、春洋を鎮魂する墓碑銘を書き、父子墓を建てた。 「もっとも苦しき たたかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父 信夫 の墓」

 1953(昭和28)年9月3日、折口信夫が亡くなり、生前の希望で遺骨がこの墓に納められた。 折口の命日の年祭には、今も多くの人が父子の墓を訪れ、折口が心を寄せていた「タブノキ」の青葉を手向けるという。 この話は、折口信夫に詳しく年祭にも参加したことのある、いつも福沢協会の土曜セミナーでご一緒する宮川幸雄さんから聞いていた。

 墓前で折口父子記念会の会長さんの説明を聞いたが、参加者の守田満さん(94歳)が折口信夫の講義を聴いたと話すと、そういう人に初めて会ったと驚いていた。 三田の現正門を入った南校舎の前に、「タブノキ」の森があることをご存知で、行ってみたいとおっしゃっていた。 見せてくれた父子墓を訪れた人の写真には、佐藤春夫、池田弥三郎、岡野弘彦、芳賀日出男(写真家)などの諸氏の姿があった。 私は折口信夫・池田弥三郎記念講演会で、岡野弘彦、芳賀日出男両氏の話を聞いたことを思い出した(明日、触れたぃ)。

 能登国一宮の氣多神社では、正装の巫女さんを従えて、都築さんの後輩という宮司さんが出迎えてくれた。 氣多神社は立派なお社で、駐車場近くには迢空、折口信夫の<氣多のむら若葉くろずむ時に着て遠海原の音を聴きけり>の歌碑があり、宮司さんが拓本のコピーを下さった。 社殿裏の天然記念物「いらずの森」の奥、昭和堤のそばにも迢空の<くわっこうのなく村すぎて山の池>の句碑があるそうだ。

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