江戸っ子の月見の名所「月の岬」2024/02/10 07:14

 そこで御田小学校「岬門」の「岬」の件であるが、亀塚や済海寺が面した丘の上の道は、御田小学校の入口から、この後行った旧高松宮邸前、高野山東京別院を経て、高輪台方面へと続く。 この台地の稜線は江戸時代、「月の岬」という名で、月見の名所として知られていた。 「ウィキペディア」の「月の岬」は、月の見崎ともいい、「東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名。名称としての用法は明治中後期には廃れている。」としている。 御田小学校は、まさしく東京都港区三田四丁目にある。

 「ウィキペディア」は、「月の岬」の名前の由来として、4つの説を挙げている。 (1)慶長年間、徳川家康が名付けた。(2)三田台町一丁目の高札場付近を名付けた。(3)元は伊皿子大円寺境内の名であったが、転じてそのあたりの名称とされた。(4)三田済海寺の総名(総称)であった。 (伊皿子大円寺は曹洞宗寺院、慶長8(1603)年赤坂溜池のあたりに徳川家康が開基となって創建し、寛永18(1841)年伊皿子に移転、寺号を大渕寺から大円寺に改号、島津家の江戸菩提寺などとして栄え、維新後の明治41(1908)年杉並区和泉に移転した。)

 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」というブログの第96回に、『月の岬』というのがある。 歌川広重『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」、広重著『絵本江戸土産十編』のうち第二編(1851(嘉永4)年頃刊、国会図書館蔵)より「同所(高輪)月の岬」の、二つの絵を見ることができる。 https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004096/

 『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」は、品川宿の廓の座敷から、江戸湾に浮かぶ満月を望んでいる。 「月の岬」は、江戸湾に月が浮かぶと、海岸線と高台の稜線が岬のように望める場所で、江戸っ子には月見の名所として知られていた。 正確な場所には諸説あるが、大まかには現在の港区高輪から三田にかけての台地の一角を指すようだ、とある。

 『絵本江戸土産十編』の第二編「同所(高輪)月の岬」は、品川駅の南にあった高台「八ツ山」(後に、海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木工事のために崩したが、地名は残る)の南から、高輪、芝浦の海岸線を望んでいる。

 前者の浮世絵は、広々とした妓楼の座敷の外に、満月が高輪沖を照らし、雁が鉤の手の編隊で飛び、停泊している無数の船がシルエットで浮かぶ。 座敷の中は閑散としているが、奥には手を付けていないマグロの刺身と、扇子や手拭、煙管入れと煙草盆が見え、廊下には食器や酒器が雑然と置かれている。 左端には、障子に遊女の陰が映っていて、その着物の裾だけが見えている。

 品川宿の廓のことは、落語「品川心中」「居残り佐平次」などで、おなじみだ。 当日記でも、五街道雲助の「品川心中(通し)」上中下を2016.11.29.~12.1.で、古今亭志ん輔の「居残り佐平次」前・後半を、2013. 2. 18.~19.と、2018.7.3.~4.の二回で読んでもらえる。

 浮世写真家 喜千也さんは、品川宿の廓の大見世といえば、「土蔵相模」と呼ばれた「相模屋」であり、安政7(1860)年3月3日、「桜田門外の変」を起こした水戸浪士たちも、その3年後の文久3(1863)年12月12日には、長州藩の高杉晋作、伊藤博文(俊輔)らが、「英国公使館焼き討ち事件」の現場へと、この「土蔵相模」から出発したという、歴史を記している。