明治36年春、慶應野球部、一高に挑戦2007/04/20 07:12

 慶應の古い応援歌「天は晴れたり、気は澄みぬ。自尊の旗風吹きなびく」で あるが、「城南健児の血は迸(ほと)ばしり 茲(ここ)に立ちたる野球団 ラ ラ慶應 ララ慶應 慶應 慶應 慶應」とつづく。 『慶應義塾百年史』中巻(前) 432頁(通算1252頁)にあった。 ついでに作詞の「理財科学生桜井弥一郎」 が、往年の名投手だったはずと、索引から『慶應義塾百年史』を見ると、草創 期の日本野球史に名前のある人物だった。 以下は、池井優さんの『東京六大 学野球外史』(ベースボール・マガジン社)による。

 日清戦争後、世の中が落ち着くにしたがって、野球熱が燃え上がった。 当 時、日本野球の頂点に立っていたのは一高野球部で、明治29年3月、横浜の 外人チームを29対4の大差で下してから、その名が高かった。 明治36年春、 慶應野球部は一高野球部に「御試合致し度此段奉願上候…」と挑戦状を送る。  一高は書式が不備だと突き返し、訊けば「練習試合をお願い致し度御許可相成 度此段奉願上候」と書き直せという。 試合をしたい一心から、その通りに書 き直して許可された。 2月24日に試合が行われたが、場所は一高グラウン ド、審判は一高OB守山恒太郎、すべて一高のいいなりであった。 この時の 慶應の投手が、桜井弥一郎(明治41年理財科卒)だった。 メンバー表を交 換して、慶應は驚いた。 一高は投手を一番に、捕、遊、一、二、三、右、中、 左というオーダーを組んできたのである。 練習試合だから、これで十分だと いうのである。