「中橋」と古医方の医家2008/03/04 07:56

 ときどきお世話になっている北村一夫さんの『落語地名事典』(現代教養文 庫・1978年)は、ありがたい本だった。 きのう三笑亭可楽の家のあった「中 橋(なかばし)」、よく落語に出てくる地名だが、どの辺かと思ってみたら、一 昨日「代脈」を書いた時、わからなかったので書かなかった医者の名前まで、 出て来た。  「中橋」は、今の東京駅八重洲口正面、中央区八重洲1丁目南側の道あたり で、江戸時代は中橋広小路といい、近隣の町まで含めて「中橋」と呼んでいた という。 三笑亭可楽の住いは、その「中橋」の北槙町油座(きたまきちょう あぶらざ)にあり、隣に浮世絵師の一陽斎歌川豊国が住んでいた。  「中橋」の出てくる落語で、すぐ思い出すのは「錦明竹」、例の早口の上方弁 で「わてな中橋の加賀屋佐吉かたから使いに参じました」と繰り返す、あれで ある。

 北村一夫さんは、ほかに「にゅう」「本堂建立」「中沢道二」「黄金餅」「名人 昆寛」、そして「代脈」に「中橋」が登場すると、記述している。  その「代脈」の引用文に「そのころ、中橋に尾台良玄という古法家の名医が ございまして…」と、医者の名があったのだ。 春風亭一之輔は、その弟子を 「銀杏(ぎんなん)」という名でやっていた。 「古法家」というのが、一之輔 を聴いた時もわからなかったので、『広辞苑』を引く。 それで北村一夫さんが 引用している講談社文庫『古典落語 下』が、間違っているらしいことに気づい た。 『広辞苑』の「こほうか」は「古方家」、「古医方を奉ずる漢方医」。 そ こで「古医方」だが、「江戸時代の漢方の医家の流派。思弁的観念的傾向を深め た金・元以降の医学(後世派)を批判し、経験と実証を重んずる古代医学の精 神に基づいた治療の改革を主張。この説をとる医家を古方家という。江戸前期 の名古屋玄医に端を発し、後藤艮山により確立され、香川修徳・山脇東洋・吉 益東洞らがこの派に属する。」 いつもいうが、落語は、勉強になる。

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