小満んの「宮戸川」(下)の(イ)2009/12/06 08:06

 トリは柳家小満ん、「ガラにもなく、最後に回され、メインレースのあとの最 終レースのようだ」と、始めた。 「宮戸川」の(下)だ。 5月に演った(上) の部分は、6月3日の日記「小満んの「宮戸川」」で褒めていた。 小満んは(上) を「お花半七馴初め」といった方がいいと言い、漱石の『三四郎』の冒頭と同 じだと言った。 三四郎が九州から東京へ行く途中、京都から乗った女に頼ま れて、名古屋の旅館で同じ部屋に泊るはめになる。 女中が一枚の布団しか敷 かないので、三四郎はノミ除けの工夫だと、敷布(本のルビは「シート」)をま るめて、布団の真ん中に白い長い仕切りをつくる。 翌朝、別れる時、三四郎 は女に「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と、言われてしまうくだりだ。  前にも書いたが、半藤一利さんも『三四郎』のここは「宮戸川」から来ている、 三四郎が宿帳に書く女の名前が「花」だと指摘していた。

 お花半七の方は、その晩、度胸がついたようで、翌朝、霊岸島のおじさんの 前に手をついて、夫婦にしてくれ、まかせろ、となる。 だが父親の、小網町 の質屋・茜屋半右衛門が承知をしない、ご近所の船宿の娘さんをかどわかし同 然にしてと、勘当だ、廃嫡だという。 やむなく霊岸島が俺の養子にするとい い、めでたく夫婦になった二人に東両国横網町に小体(こてい)な小間物屋の 店を持たせる。 女中と店の者を置き、繁昌する。 お花と半七は仲が良過ぎ るほどで、べたべたしている。 湯もいっしょに行って、男は出るのが早いか ら、半七が外で待っているというから、ばかばかしい。 あの調子じゃあ、は ばかりも差し向かいで、行っているんじゃないかと、霊岸島のおじさん。

小満んの「宮戸川」(下)の(ロ)2009/12/07 08:06

 ある日、お花がご先祖様の墓参りに行くことになり、半七は店を留守にでき ないので、小僧の貞吉を供につけてやる。 お花は、半七の選んだ白薩摩の着 物に、綴れの帯、東下駄。 心配しながら送り出した半七は、眠くなってゴロ ッとなる。

 お花と貞吉が吾妻橋を渡ると雨が降ってきた。 門の下で雨宿り、止みそう にないので、貞吉に傘を取りにやる。 雷が鳴り始め、恐がるお花。 近づく 雷、カリカリピシャーッ、お花は目を回した。

 雨が上がって、通りかかった兄弟分という二人の男、きれいな若い娘が倒れ ているのを見つける。 兄貴分が、お花を知っていて、実家の船宿に勤めてい た三年前、なにやら言い分があるという。 弟分が抱きかかえ、兄貴分が口移 しに水を飲ませて、背骨の両側を親指でしごき、背中を一つどやす。 昔のよ しみで送ってやろうといいながら、サルグツワをかませ、二人でかついで、石 置場に連れ込む。 弟分には、一杯飲んでくれと金を渡す。 兄貴は?と聞か れ、俺には少し料簡がある、と言う。 小満んは、ここから芝居がかりになる。  サルグツワをはずされたお花、「お前は、イサさん」。 静かにしろい。 真実 惚れた………、いつかは思いを晴らそうと、しっぽり俺と濡れてくれェ。

小満んの「宮戸川」(下)の(ハ)2009/12/08 07:29

 傘を取りに行った小僧の貞吉が、戻ってみると、お花がいない。 もし、小 僧さんと、菰をかぶり、腰の立たないいざりが、事の一部始終を見ていて、川 沿いのお薬師さんの方でも探してみたら、と言う。 見つからないので、店に 帰って半七に話し、さんざん探し回ったが、その日は暮れ、霊岸島に言って、 お役人にも届けたが、お花の行方は杳として知れなかった。

 はや一年が経ち、お花のいなくなった日を命日として、橋場の寺で一周忌の 法要を営んだ。 旧暦6月の半ば、暑いので、半七はひとり山谷から舟で堀へ 出、向両国まで帰ることにした。 船宿の女将が、屋根舟は出払っているが、 猪牙(ちょき)ならあるといい、何か一口というので鮑の水貝にする。 する と、船頭の弟分で、少し酔った正覚坊の亀というのが、一緒に乗せてくれとい う。 半七は、酒の相手にと、乗せてやることにする。 船頭は粋な稼業だか ら、もてるだろうと話を向けると、あっしや兄ィは、このご面相だからもてな いといい、お慰みに粋な話をと、一年前のことを語り出す。

 兄ィと二人、本所の旗本屋敷の賭場でさんざん取られた帰り、雷がゴロッと 鳴って、水戸様の屋敷のあたりに落ちた。 普賢寺の所まで来たら、きれいな 女が倒れていて、多田の薬師の石置場に連れ込み、なぐさんで…。 これで様 子がからりと知れた、去年の6月7日。 ふびんと思えど宮戸川、どんぶりや った水煙り。

 「もし、あなた、あなた」と、ひどくうなされていた半七が、お花に起こさ れた。 「ただいま戻りました」 「途中、妙な奴に会わなかったか」 「い いえ」 「小僧が傘を取りに戻ったところまでが本当で、あとはそっくり夢か」  「夢は五臓の疲れといいますから」 「いいや、小僧の使いだ」

 「宮戸川」という題、(上)だけでは何だかわからないが、(下)までやると、 隅田川の古称だということが判明する。 (下)は一見、いやな、暗い噺だか ら、(上)だけでやめる理由がよくわかる。 でも最後の「夢」で、さっぱりと 救われた感じになったのは、小満んの芸だろう。 三悪人を二人にしたのも、 効いているのかもしれない。

セバスチャン・サルガドの「アフリカ」展2009/12/09 07:17

恵比寿の東京都写真美術館で、展覧会を二つ見てきた。 「セバスチャン・ サルガド アフリカ 生きとし生けるものの未来へ」(13日まで)と、「木村伊 兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン―東洋と西洋のまなざし」(2月7日ま で)である。 木村伊兵衛とカルティエ=ブレッソンを見に行くつもりにして いたら、11月29日のNHK日曜美術館で「サルガドのアフリカ」をやった。  内戦、飢餓、病気、貧困など、悲惨な状況を撮っているその写真が、なんとも 美しいのだ。 それはいったい何故なのか。 美しさと悲惨は矛盾しないのか。  姜尚中さんと中條誠子アナが展覧会の会場で、日頃「写真に言葉はいらない」 と言っているというサルガドに、特別にインタビューしていた。

ドキュメンタリー・フォトの第一人者といわれるセバスチャン・サルガド (1944~)は、ブラジル出身、フランスで農業経済学の博士課程を終了後、国 際コーヒー機構に勤め、1971年ルワンダに行った。 パリ時代、建築家である 夫人が仕事のために買ったカメラで、写真に対する好奇心に目覚めたらしい。  29歳で経済学者から、写真家に転進した。 なぜ写真なのか、「写真、それ自 体に力がある」「写真に翻訳はいらない、力強い言語を持っているから」と、語 っていた。 モザンビーク(74年)、アンゴラ(75年)の内戦などを撮る。 自 分のルーツを見直すために、ラテン・アメリカの人々を撮り、生と死が混然と したその世界をとらえた。 つづいて人間の働く姿をテーマに、社会のひずみ、 自然とともに生きる労働の喜びも写した。 そして再び、今回の展覧会の中心 になっている「アフリカ」を撮った。 現在は、地球原初の風景を砂漠や熱帯 雨林、極地や高山地帯に求める8年がかりの「GENESIS」というプロジェク トを進めている。

悲惨と美しさが矛盾しない理由2009/12/10 07:18

サルガドの名を不動のものにしたという一枚の写真が、やはり強く印象に残 る。 1985年のエチオピア内戦、ティグライ州西部のカレマキャンプに到着し た難民たちが、巨大な樹の下で休んでいる。 天からは、樹の葉を透かしたの だろう、レンブラントの絵のような光の矢が、神々しくも暖かく難民たちに降 り注いでいる。 彼らはエチオピア空軍のミグ戦闘機からの機銃掃射を避ける ために、夜通し歩いて、ここに到着した。 サルガドも難民たちと一緒に長い 距離を歩いてきたのだ。

 サルガドは言う、そういう作品を撮影するためには、

「そこにいることが喜びでなければならない。 彼らを尊重しなければならな いし、彼らの尊厳に敬意を示さなければなりません。」

「人々と一緒に移動し、その瞬間を待たなければならない。 光はほんのわ ずかしか続かない。 (その時は)30秒もすると、ほとんど消えていた。 一 瞬、信じられないようなことが起きるのだ。」

「美しい光は、あらゆる所に存在する。 豊かなフランスや日本だけに存在 する訳ではない。 その光を与えられたことに感謝しなければならない。 人 間に尊厳があるから、その尊厳を浮き彫りにするのです。 劇的な悲劇は、写 真家が作り出すものではない。 ましてや美しさも、写真家が作り出すもので はない。 そこにあるだけなので、その瞬間を尊敬してつかみ取り、敬意を持 って撮る、それだけだ。」

「人間の尊厳とは、どんな状況にあっても人として生きているという素晴ら しさ。 まわりの人達とつながり、お互いに尊重しながら生きていく、人間の 力なのです。 彼らには生きる豊かさがある。 死んだら、みんなで悲しんで くれ、苦しんでいたら、助けてくれる。 都会にいる方が、人々はもっと悲惨 かもしれない。 孤独で、孤立しているから…。」