宮崎駿さんとの共通点2011/12/11 04:32

 さて、宮崎駿さんの『本へのとびら― 岩波少年文庫を語る』(岩波新書)だが、 50冊の紹介のほかに、「大切な本が、一冊あればいい」という章があり、「自分 の一冊にめぐり逢う―少年文庫を語る」と「三月一一日のあとに―子どもたち の隣から」という文章がある。

 私が、宮崎駿さんとの共通点を感じた箇所が、二つあった。 一つは、50冊 の『小公子』で、「ぼくは、セドリックと正反対で、ためらい、ものおじし、は っきりいえない子供でした」という所。 「本ばっかり読んでいる子というの は、ある種のさびしさがあるからですよ。外で遊んでいると忙しいですからね。」 (146頁)に通じる。

 もう一つは、大正3年生れの父親を語ったところ(私の父は明治44年生れで、 3歳上)。 関東大震災の時に9歳で、4万人近い焼死者を出した被服廠跡の広 場を妹の手をひいて逃げまわり、生き延びた。 祖父が命じて家の者はみな腹 ごしらえをし、足袋はだしで避難したおかげだった。 第二次世界大戦では、 「敗戦間際に宇都宮で爆撃があったときは、四歳の僕を背負って、東武鉄道の 土手に這いのぼり逃げました。 母が弟を背負い、叔父が兄の手をひいていま した。/夜は真昼のように明るく、土手の上からは宇都宮の下町の家々から炎 が数知れずふき出すのが見えました。空は雲におおわれていて、そのなかから アメリカの焼夷弾が火の雨のようにふり注ぐのが見えました。」

 関東大震災の時には、私の父は中学に入ったばかりだったと言っていた。 昭 和20年5月24日未明、アメリカ軍側の発表で525機というB29が来襲、渋 谷、芝、荏原、目黒、大森、蒲田の各区が焼け野原になる空襲があった。 私 は荏原の中延で、この空襲を経験した。 父は4歳の私をおぶい、8歳の兄の 手を引き、母や祖母といっしょに馬込方向に逃げた。 途中で母は「もう、こ こで置いていって下さい」と言ったという。 戸越、五反田方向へ避難した人 の多くは焼け死んだそうだ。 「大ドブ」と呼んでいた幅2メートル位のドブ 川を伝って行き、立会川に降りて、水を頭からかぶりながら一夜を過ごした。  焼けたと思っていた家は残っていた。 玄関の上がりがまちに私を降ろし、畳 に積った灰の掃除や後片付けに数時間。 「紘二は?」と気づいてさがすと、 玄関に降ろした時のままの格好で「ボーッ」としていたという。 以来66年 間、「ボーッ」と生きてきた。