「江戸がり屋」の「東京語」を批判する2011/12/16 05:27

 さて、録音で聴いた池田弥三郎さんの慶應での最後の講演だが、コピーを資 料としてもらった『文藝春秋』昭和55年5月号に「銀座っ子の「東京語批判」」 として載り、同年10月刊行の単行本『日本人の心の傾き』(文藝春秋)にも収録 された。

 弥三郎さんは、周囲で粋がっている「江戸っ子がってる人」「江戸がる人」を、 密かに「江戸がり屋」と呼んで、批判する。 「江戸っ子」、その引き続きとし ての「東京っ子」なんてものは、講釈や落語とかの世界だけに棲んでいる概念 というか通念としての「江戸っ子」じゃないか、という。

 そういう概念の「江戸っ子」が、言葉の上でも、いろいろ問題を起こしてい る。 たとえば「べらんめえ」口調、「べらぼうなことだ」とか「そんなべらぼ うなことはないよ」とはいったけれど、「なに言ってやんでえ、べらんめえ」な んて言った人間てものは、実際はいなかった。

 芝居なんかで「髪結新三」が残っている「髪結い」、「髪ゆい」というと江戸 は「髪いい」だと言われる。 ところが、「髪いい」も、「髪ゆい」も聞いたこ とがない。 「髪いさん」なんです。 「髪ゆい」といっているつもりが、東 京風についなまって、「髪いい」になっている。 「髪いい」なんてことをいっ て、それが江戸だと思っているのは、「江戸がり屋」の江戸で、ムリなところが 目につく。

 地名の「新宿」、「しんじゅく」といわれると、われわれ非常に田舎臭い感じ がする。 軽い気持で言っていると「しんじく」と発音する。 だけど「しん じく」であって「しんじゅく」ではないということは、あまり声高に主張はし ない。 むしろ「しんじゅく」のつもりなんだけど、私の発音が「しんじく」 なんで、初めから「しんじく」とハッキリ言わなきゃ「江戸っ子」でも「東京 っ子」でもないって言われると、私どもちょっと抵抗を感じる。

 慶應義塾の「塾」もそう。 戦後、潮田江次塾長時代、慶應義塾をローマ字 で表記するのに“Keio-Gijiku”か “Keio-Gijuku”か非常に困って、結局「慶 應大学」(“Keio University”)にしたという有名な話がある。 ただ、「塾」 という字は、中国の音で「じく」という音があるんだということを聞いたこと がある。 ご専門の村松(暎=慶大教授、中国文学)さんが目の前にいるから、 それ以上のことはボロが出そうだからやめておきますが…。 福沢先生も「じ く」とおっしゃって、書き表わすときも「じく」だったそうだ。 三田を訪ね て来る書生たちが福沢邸の立派な玄関を塾だと間違えて案内を乞うから、「じく →」と書いて貼り出したと(この「じく→」エピソードは「録音」だけ、『文藝 春秋』にも『日本人の心の傾き』にもない)、富田正文さんにうかがったことが ある。