福沢は儒教を全否定したわけではない2011/12/23 04:23

 渡辺浩教授は序論で、儒教の厳しい批判者としての福沢に触れた。 『福翁 自伝』には、「私は唯漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ斗りでない、一歩進 めて所謂腐儒の腐説を一掃して遣らうと若い時から心掛けました。ソコデ尋常 一様の洋学者や通詞など云ふやうな者が漢学者の事を悪く云ふのは普通の話で、 余り毒にもならぬ。所が私は随分漢書を読で居る。読で居ながら知らない風を して毒々敷い事を言ふから憎まれずには居られない。」とある。

 『福翁百話』では、「漢学洋学共に学問の名あれども、人間の居家処世より文 明の立国富強の辺より論ずるときは、古来我国に行はれたる漢学は学問として 視る可らず。我輩の多年唱導する所は文明の実学にして、支那の虚文空論に非 ず。或る点に於ては全く、古学流の正反対にして、之を信ぜざるのみか其非を 発き其妄を明にして之を擯けんとするに勉むる者なり。」と言っている。

 ところが、『学問のすゝめ』初編で、「実学」として究理学・経済学に歴史・ 脩身学を含めた福沢は、『福翁百話』「前途の望」で「満世界の人皆七十歳の孔 子にニウトンの知識を兼ね」という。 『論語』為政の「七十而従心所欲、不 踰矩」、七十歳、従心、したいことと、すべきことが一致した完全な状態である。  『文明論之概略』第六章では、「徳義の事は古より定て動かず。」「徳義の道に就 ては恰も古人に専売の権を占められ、後世の人は唯仲買の事を為すより他に手 段あることなし。」といっている。

 つまり、福沢は古今東西、普遍妥当の道については、否定していない。 儒 教を全否定しているわけではない。 何を否定し、何を否定していないか、が 問題になる。 そこで次に儒教の教義内容(についての私の理解)を簡略にまと めてみたい。