渋沢栄一の篤太夫、攘夷から開港、経済重視へ2021/06/16 06:48

 6月13日放送の『青天を衝け』第18回「一橋の懐」、渋沢栄一の篤太夫は、一橋の兵が足りないと慶喜に提言し、「軍用御用掛・歩兵取立御用掛」に任命され、備中の一橋領へ。 一人も希望者の出ない中、阪谷朗盧(さかたにろうろ・山崎一)の塾に通って、塾生と交流を深め、代官のたくらみも見破り、沢山の志願者を集めることに成功する。

 阪谷朗盧は、攘夷の心を持つ篤太夫に、寛永の浜田弥兵衛は知っているかと問い(『青天を衝け』浜田弥兵衛(やひょうえ)、台湾事件<小人閑居日記 2021.4.2.>)、互いの利のために港は開くべし、攘夷は人の道に外れているばかりか、世界の流れに反すると、説く。 それを「まことに、おかしげ」だと言う篤太夫に、朗盧は「おかしげ」とは江戸の言葉か、つねの一橋の役人ではないようだ、と言う。

 ドラマを離れて、阪谷朗盧(1822-1881)は備中の人、大塩平八郎の洗心洞(どう)に入門、江戸に出て昌平黌教授古賀侗庵の久敬舎に学び、26歳で帰郷、嘉永6(1853)年、一橋家が庶民教育のために寺戸村(現、井原市)に設立した興譲館の督学に迎えられ、維新まで十数年間、教育に専念、開国論や海軍充実を主張した。 維新後は新政府に下級官吏として出仕、明六社の最年長同人。 四男、阪谷芳郎(よしお・1863-1941)は大蔵大臣や東京市長を務めたが、その妻は渋沢栄一の次女だそうだ。 「紀行」に出て来た「興譲館」の掲額は渋沢栄一の書だった。

 沢山の志願者を連れ帰り、褒美をもらった篤太夫は、慶喜に「今、改めて、壊れかけた日の本を再びまとめ、お守り頂けるのは殿しかおりません」、そのために一橋家の懐具合を整え、土台を頑丈にする役目を担いたいと申し出る。 慶喜は「円四郎め、まことに不思議な者を、押しつけおった。渋沢よ、ならばやってみよ、そこまで申したのだ、おぬしの腕を見せてみよ」。

第14代将軍徳川家茂(いえもち・磯村勇斗)は、第二次征長戦争のため、三度京へ向かい、和宮(深川麻衣)との別れを惜しむ。