つながりを創造に結びつける2021/06/26 07:06

 蔦屋重三郎が版元として仕事が出来た背景には、狂歌連の存在があった。 狂歌とは五七五七七で作る和歌のパロディ。 狂歌連が次々作られると、連は狂詩や戯作や噺本の土壌になった。 狂歌連に参加する者たちは狂名をつける。 蔦屋重三郎は蔦唐丸(つたのからまる)の名で連の中に積極的に入って行った。 狂歌の原則は読み捨てで、記録をせずそのまま解散するものだったが、蔦唐丸が連に関わると狂歌は刊行されるようになり、やがて刊行を前提に狂歌会が開かれるようになる。 その結果、後世の日本人に「連」の存在を知らしめることになり、連を知ることは江戸文化の核心に迫ることになった、と田中優子さんは指摘する。

 もうひとつ、狂歌の刊行が結果したものがあった。 喜多川歌麿の出現である。 天明2(1782)年秋、歌麿は上野で宴席の主催者となった。 出席者は太田南畝、朱楽菅江(あけらかんこう)、恋川春町、朋誠堂喜三二、志水燕十(しみずえんじゅう)、南陀伽紫蘭(なんだかしらん・絵師の窪俊満)、芝全交(しばぜんこう・大蔵流狂言師・山本藤十郎)、竹杖為軽(たけつえのすがる・蘭学者の森島中良)、北尾重政、勝川春章、鳥居清長など、名だたる狂歌師、絵師たちである。 歌麿はこの後狂歌連と組んで仕事をするようになり、天明8(1788)年には、南畝をはじめとする30人の狂歌師とともに『画本虫撰(えほんむしえらみ)』を作る。 これは蔦屋重三郎の戦略であったろう。 無名の歌麿は、狂歌連とつながることによって、その名を知られ、1790年代の大首絵を準備するのだった。

 蔦屋重三郎は、自分が「連」の中にはいってゆくばかりでなく、大田南畝のような「橋渡しの人」、つまりコーディネーターの能力を持った人と親しくなり、その力を借りながら横のつながりで刊行をとりまとめた。 また、縦(世代間)のつながりも重視した。 恋川春町は駿河小島藩の武士で、後に「黄表紙」と呼ばれる、社会を見据えた笑いの絵本(風刺にみちたSF漫画のようなもの)の発明者である。 黄表紙は江戸文化の鋭さを代表するジャンルで、山東京伝に受け継がれてピークを迎える。 鱗形屋孫兵衛は安永9(1780)年に出版元を廃業するが、蔦屋重三郎は恋川春町を含む鱗形屋の人脈をそのまま受け継ぎ、この黄表紙という、江戸文化の凝縮を作り続けた、と田中優子さんは書いている。