南進か北進か、「対英米戦を辞せず」 ― 2022/01/09 08:14
「1941日本はなぜ開戦したのか」分岐点[2]は7月2日。 6月22日、突如ドイツ軍が、資源と農地を求めて、ソ連に侵攻した。 突如勃発した独ソ戦への対応をどうするか、政府と軍部は大騒ぎになった。 日本はドイツとは前年の1940(昭和15)年9月に三国同盟を結んでいる同盟国であり、ソ連とはわずか2か月前の4月に松岡洋右外相がモスクワで日ソ中立条約を結んだばかりだったからだ。
松岡外相は、態度を一変させ、ドイツに呼応して背後からソ連に攻め込もうとする「北進論」を唱え、陸軍参謀本部もそれに同調した。 一方陸軍を束ねる陸軍大臣東條英機は、南部仏印に進駐し、油田地帯のオランダ領東インドへの足掛かりとする「南進論」を主張した。
7月2日、御前会議。 6月25日の大本営政府連絡懇談会で決定した「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」の原案を正式に決定。 「帝国は依然支那事変処理に邁進し、且(かつ)自存自衛の基礎を確立する南方進出の歩を進め、又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」と「南進論」「北進論」の両論を併記する形で、対英米戦争の準備と対ソ戦準備の推進を明記した。 同時に大本営は、関東軍野戦演習の名で関東軍に合計70万人の兵力を集中動員した(関特演)。 この国策要綱には、「南方進出の態勢を強化す」に続いて、「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず」との重大な一行が書かれていた。
中野信子さんは、「予言の自己成就」、レトリックだったものが本当になってしまうことがある、と指摘した。
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