漱石と東洋城の修善寺までと、菊屋旅館 ― 2022/08/17 08:07
明治43(1910)年、漱石が松根東洋城に勧められて修善寺温泉へ湯治に行った8月6日、東洋城との御殿場での待ち合わせに手間取ったのが、漱石の大患の引き金になった一件を、原武史さんの朝日新聞連載「歴史のダイヤグラム」風に書いてみたい。 資料は、綿密な考証調査で言わずと知れた荒正人著『漱石研究年表』(集英社)である。
8月6日は土曜日、漱石は午前11時新橋発、神戸行きの一等車で出発した。 松根東洋城から一汽車遅れるとの電報があり、御殿場で待ち合わせることにする。 午後3時9分少し前に御殿場に着き、茶屋で休息する。 御殿場は、家屋は新しいが粗末である。 富士講の人たちで溢れ、西洋人も何人か見える。
松根東洋城は、午後1時10分新橋発、浜松行きの普通で、5時29分に御殿場に着く。 漱石は2時間20分ほど待ったことになる。 東洋城の一等切符は、払戻しを列車の給仕に頼んであったので、御殿場停車場で3円96銭を受け取る。 構内で外人と駅夫が、京都に行くにはどの列車に乗ったらよいかと問答していた。 話が通じないで困っていたので、漱石が通訳をしてやる。 午後5時56分少し前に、三島停車場に着き、伊豆鉄道大仁線に乗り換えるため40分待って、6時45分三島発、7時42分大仁に着く。 日は暮れ雨は本降りになる。 三台の車をやっと見付ける(一台は荷物用)。 修善寺まで約4キロほど坂道を行き、修善寺の温泉街に入り、狩野川左岸(河口へ向って)に沿い渡月橋を渡って右岸に出て、菊屋別館に着く。
座敷はふさがっていて、関博直子爵(旧備中新見藩主、貴族院議員)がいたという二階離れの西村家貸切りの十畳と六畳の新しい座敷に一晩だけ入れてもらう。 前にも後にも山が見える。 入浴し夕食をする。 退院の際の禁を破って、『藤浪』の語りを謡う。
翌8月7日(日)、雨。 朝食、海苔・鶏卵二個、汁一杯・飯三杯食べ、食後便通ある。 松根東洋城が部屋を交渉したが、駄目である。 本館なら一間あるので、午前10時、約400メートル離れた菊屋本館三階に移る。 新築の十畳だが、10日(水)に予約が入っているので退去しなければならない。 しばらくして考え、自宅に帰るか別の旅館に移った方がよいと思う(鏡への手紙)。 東洋城は、菊屋本館で北白川宮殿下の世話のすんだ後、夜になると漱石のところへ来る。 この夜、10時に来て、11時まで話す。 北白川宮殿下が、『吾輩は猫である』を読んだと教えられる。
8月8日(月)、雨。 午前5時起床、入浴後、胃痙攣を起す。 不快耐え難い。 12時頃再び入浴、胃痙攣再発する。 やっと一杯ご飯を食べる。 午後4時過ぎ、東洋城から迎えがあったので、雨の中を足駄を借りて行く。 7時頃、注文の料理で夕食を共にする。 昼食時より食欲がある。 東洋城に含嗽剤をつくって貰い、うがいをする。 再び入浴すると胃痙攣を起す。 入湯がよくないとしか思えぬ。 夜半、目覚ます。 胸苦しい。
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