貨幣経済背景の織田家、それ以前、物流に活路の楠木家2023/02/14 07:02

 昨年8月15日から朝日新聞朝刊に連載されている今村翔吾さんの『人よ、花よ、』(北村さゆり・画)を読んでいる。 楠木正成の子、楠木多聞丸正行(たもんまるまさつら)が主人公だ。 歴史小説で学ぶことが多い。

 2011年に朝日新聞夕刊に連載された東郷隆さんの連載小説『青銭大名(あおぜにだいみょう)』で、織田信長の父、織田弾正忠(だんじょうちゅう) 信秀のことを知った。 「青銭」とは緑青を吹いた銅貨のこと、信秀が、貨幣経済という新しい「軍事力」を背景に、つまり経済力を武器に、武将としてのし上がっていく物語だった。 そして子の信長を有力武将として日の当たる場所に送り出す基盤を築いた。 信秀は四十余歳の若さで病死したので、その存在の再評価が始まったのは、さほど古くなく、近年、中世史研究が進んだからなのだそうだ。 弾正忠(だんじょうちゅう)家は信秀の父信定の代から勝幡(海部(あま)郡佐織町)を本拠とし、津島を領するなど尾張南西部を基盤として独自の勢力をきずきはじめる、津島神社の門前町であり、伊勢と尾張を結ぶ水陸の要衝で有数の商業都市でもある津島を、親子二代にわたって支配したことは、信秀の財力形成につながった。

信長の父、織田弾正忠信秀の物語<小人閑居日記 2011. 8. 11.>

商都津島と勝幡(しょばた)城<小人閑居日記 2011. 8. 12.>

 『青銭大名』で、織田信長の父、信秀の時代から、貨幣経済という新しい「軍事力」を背景に、つまり経済力を武器に、武将としてのし上がっていくことを知ったのだったが、今村翔吾さんの『人よ、花よ、』では、それより前の『太平記』の時代、つまり鎌倉末期、文保(ぶんぽう)2(1318)年後醍醐天皇の即位以後の頃にも、河内国東条に根を張る豪族、在地地主の楠木家の正成は、運搬、物流を一手に引き受けることで銭を得ようとしたとあった。 父正遠(まさとお)が始めたことであるが、その頃はまだ田畑からの収益の一割程度だったのを、正成は家督を継いだ時、「此方(こちら)を本分とする」と、一族郎党に宣言した、というのだ。 田畑を拓くには、相当時を要する。 他には民から多くの年貢を取るほかない。 物流に活路を見出したのである。

 これは大いに当たった。 九州、四国から畿内へと流れる物は、瀬戸内の海を通って大半が摂津国、河内国に荷揚げされる。 摂津に荷揚げしても、野盗や在地領主に奪われることが多いとなれば、安全に通してくれるどころか、京までの護衛を引き受けてくれる河内国に荷揚げするほうがよいとなって当然である。 楠木家は、西国から流れる物資の運搬役として重宝され、数か年のうちに富を築くに至った。 こうして得た富は、困窮する民の救済にも使われ、さらには自然と増えた郎党によって野盗たちも一掃していったのである。

 正成は、各地の豪族らと連絡を取り合い、大規模な物流網を整備していった。 やがてその網は、河内国のみに留まらず、和泉、摂津、大和、伊賀、果ては京のある山城の南部まで広がっていった。