足利高氏、新田義貞も叛旗、鎌倉北条を倒す ― 2023/02/23 07:25
今村翔吾さんの『人よ、花よ、』、11月17日92回の途中で第三章「桜井の別れ」に入る。 父正成が再び起ち、吉野で護良親王が、播磨で赤松円心が起ち、三者で大きな流れを生み出そうとした元弘3年である。 如月22日、鎌倉方は5万(世間は20万)で、正成の籠もる千早城、赤坂城への攻撃を始めた。 正成は予定通り、まず下赤坂城を捨てる。 上赤坂城は大将平野将監、副将楠木正季、千早城は正成、野田正周、大塚惟正が籠もった。 兵500の上赤坂城を、鎌倉軍は1万で攻め、5日後の27日、平野将監が命は取らぬ約束で降参した。 正季は手勢と千早城へ。 約束に反して、平野は斬首、獄門になる。
一方護良親王は、吉野が陥落して、高野山へ。 そこで7千の兵を集めて、鎌倉方の糧道を断ち、千早城を支援する。 千早城の兵は1千、囲む鎌倉軍は10万で攻めあぐね、水を断つ策に出るが、正成は木を刳り抜いた水船300を用意していた。 さらに250の手勢で夜、奇襲をかけ水源を確保、敵の旗や大幕を奪う。
正成が千早城で奮戦して約1か月、閏2月24日、後醍醐帝が隠岐を脱出、伯耆国名和の湊に入り、名和長年と合流、28日共に船上山で兵を挙げ、勝利する。 後醍醐帝はひたすら鎌倉追討の綸旨を発し続け、3月になると、さらに続々と兵が集まる。 もはや伯耆、出雲は守護や地頭の兵では抑えきれぬ状態となっていった。
この間、播磨で挙兵した赤松円心は、破竹の勢いで鎌倉方に連勝を重ね、遂には京に向けて進発する。 正成は、なおも千早城で鎌倉方の大軍を引き付け続けている。 さらに伊予国河野氏、肥後国菊池氏も鎌倉に叛旗を翻す。 流れは、完全に帝側に傾いていた。
5月7日、船上山攻めに向かっていた足利高氏が、唐突に鎌倉からの離叛を表明、赤松らと同時に六波羅探題に攻め寄せたのである。 六波羅は大混乱に陥り、呆気ないほど簡単に陥落してしまった。 翌8日には、千早城攻めから抜け、勝手に東国に帰っていた新田義貞が挙兵した。 賛同する者たちを糾合しつつ鎌倉を目指し、途中、幾つかの戦に勝ちながら軍を進め、遂に21日には鎌倉に雪崩れ込むと、翌22日には北条得宗家当主、北条高時を討ち取ったのである。 両将が示し合わせた訳ではないが、互いにほぼ時を同じくして鎌倉に見切りを付けたということになる。
これらのことは瞬く間に全国に伝わって激震を呼んだ。 千早城を取り囲んでいた鎌倉方の軍勢も、六波羅陥落の伝わった10日の時点で、潮が引くように全軍が退却を始めた。 鎌倉方は南都奈良に退こうとしたが、混乱の中で死傷者を出しつつ、やがて瓦解して散り散りとなったのである。
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