楠木正成の夢、「英傑」となった理由2023/02/20 07:07

 三番手として赤松円心が起ったのは、護良親王と楠木正成の綿密な企ての中のことであった。 次々に起って、大きな流れを生み出そうとしたのだ。 多聞丸正行は、死ぬ間際の父から、それを聞いていた。 皆は後醍醐帝への忠義から立ち上がったというけれど、赤松円心は小領主として生涯を終えるのに何の意味があると思い、ならばその全てを擲(なげう)って、もう一つの一生に賭けてみたいという、夢を抱いたというのだ。 この辺りの想い、父は己とも酷似していると話していた。

 正成は東条に戻ると、下赤坂城、上赤坂城、千早城を中心に、金剛山系に築いた大小の城、砦に兵を振り分けた。 戦は点より線が重要、経路を予め徹底しておいて、城が陥落する前に、次の城に逃げ込めれば、最前線の城は最大の力で戦えるという考え方だ。 正成が輝いたこの瞬間を、世の人は東条に攻め寄せた鎌倉の兵は20万と言う。 けれど、多聞丸は多くても5万、3万余が妥当だとする。 それが楠木正成という人が偉大だという証しであり、大軍の利を生かせぬ地を見抜いて城を築いた慧眼、前代未聞の活躍をした、駆け抜けた一生が人々の記憶に鮮烈に残るものであったから、楠木正成という極めて優れた武人は「英傑」となったのだ、と言う。