『最高の人生の見つけ方』の五島2023/06/15 07:00

水ノ浦教会 写真提供、五島市

 そこで『最高の人生の見つけ方』の二人が行った、幸枝の故郷の、長崎県である。 映画の詳細はまったく覚えていないのだが、ロケ地のリストがあったので、それをたどってみることにする。 二人は、長崎市で、平和公園、眼鏡橋、馬込教会、伊王島灯台を巡り、長崎港ターミナルから、五島の福江島・福江港ターミナルへ渡る。

 福江島で行ったのは、北部の岐宿(きしゅく)町、まず城岳展望所。 八朔台地や岐宿の町並み、奈留島や中通島など点在する島々が眺望できる標高216メートルの展望所。

 カトリック水ノ浦(みずのうら)教会。 白亜の優美な教会で、二人は礼拝堂の椅子に座って、少女の「死ぬまでやりたいことリスト」の話をする(内部の写真提供、五島市)。 江戸時代末期に、大村藩領から移住した潜伏キリシタンのうち、5人の男性とその妻子の移住に始まる。 彼らは仏教徒を装いながら、ひそかにキリスト教を信仰する。 慶応2(1866)年のころ、上五島の信者が水ノ浦に来て、長崎の大浦にキリシタンの教会が建っていることを告げた。 その年11月8日、水ノ浦の帳方(ちょうかた・隠れキリシタンの最高役職者)など3人が長崎に行き、プティジャン司教に会いメダイ(信仰のよすがとして身につける、キリストや聖母の姿などを刻したメダル)や十字架をもらい受け帰島する。 明治元(1868)年12月25日、水ノ浦のキリシタンたちが帳方の家に集まっているところを役人に踏み込まれる事件があった。 4~5日後、30余名の男性が捕えられ、入牢した。 大半の信徒は明治2(1869)年に出牢をゆるされたが、主だった8名はさらに2年余り牢内に留め置かれた。 禁教の高札撤去から7年後の明治13(1880)年に、水ノ浦湾を一望する小高い丘の上に、パリ外国宣教会ザルモン師が最初の教会を建立した。 その建物が老朽化し、昭和13(1938)年、教会建築の名工鉄川与助の設計施工で、現在の白亜の優美な教会が建てられた。

 魚津ケ崎公園。 遣唐使船の寄泊地として歴史に名を残す岬にある。

どういう殿様、中津藩主奥平氏<等々力短信 第1168号 2023(令和5).6.25.>2023/06/15 07:05

  どういう殿様、中津藩主奥平氏<等々力短信 第1168号 2023(令和5).6.25.>

 大河ドラマ『どうする家康』第21回「長篠を救え!」で、福沢諭吉の中津藩の殿様奥平氏が、どういう経緯で徳川の譜代大名になったかを知ることになった。 中世播磨国の豪族赤松則景にさかのぼり、赤松氏が武蔵七党の児玉氏に入婿後、その子孫が上野国(こうずけのくに)甘楽郡(かんらぐん)奥平郷(現、群馬県多野郡吉井町下奥平)に土着、奥平を称したという。 その後、新田(にった)氏に仕え、同氏滅亡後は貞俊(さだとし)が三河国設楽郡(したらぐん)作手(つくで)地域(現、愛知県新城(しんしろ)市)に移住した。 戦国時代には山家三方衆(やまがさんぼうしゅう)と呼ばれ、小領主の国人連合による奥三河の地域支配を展開した。 対立抗争を続ける今川、徳川、武田の勢力に挟まれて、帰属の選択に苦しみ、貞能(さだよし)の子信昌は結婚したばかりの妻を人質として武田に差し出している。 貞能のとき、最終的に徳川氏に帰属した。 家康も武田氏に対抗するために、奥平家を特別に重視、天正3(1575)年の長篠の合戦で、長篠城の守備にあたった軍功により、貞能の子信昌と家康の娘亀姫との婚儀が許され、譜代大名の地位を確固たるものにした。 翌年、新城城に移り、その後小牧・長久手の戦、小田原攻めに参陣、天正18(1590)年家康の関東入国に際して上野国小幡(おばた)3万石、慶長6(1601)年美濃国加納10万石を与えられた。

 以後下野宇都宮、下総古河、出羽山形、丹後宮津などを転封ののち、享保2(1717)年信昌の五代後の昌成(まさしげ)が豊前国中津10万石に封じられ、幕末まで定着した。 中津での歴代藩主は昌成、昌敦、昌鹿(まさか)、昌男、昌高、昌暢、昌猷(まさみち)、昌服(まさもと)、昌邁(まさゆき)。 昌服、昌邁は、福沢と関係が深い。

 大河ドラマ、何とも面白く作るものである。 武田勝頼に長篠城を包囲された奥平勢は、兵糧も尽き、徳川、織田の援軍を待ち望んでいる。 岡崎城の家康は、三方ヶ原の戦で散々な目に遭ったので、信長が援軍に来なければ、織田と手を切ることを考えている。 長篠から、あの鳥居強右衛門(すねえもん)がひとり武田の囲みを抜け出、谷川をくぐって、援軍を頼みに岡崎まで、走りに走る。 毛皮をかぶり泥まみれで倒れている強右衛門を見つけたのは、亀姫で、ウチの若殿を末永くよろしくと言われる。 そこへ織田の軍勢三万が到着、信長は、家康、お内儀築山殿、娘五徳の婿殿信康に、謙遜を装ったパワハラで、臣下になれ、ならなければ敵だ、と迫る。 戦が終わったら、亀姫は奥平へ輿入れとも。 どうする家康。 家康は断り、信長は「五徳行くぞ、立て」。 決裂に、亀姫、「亀はもう、わがままは申しませぬ、父上、亀は奥平様のもとに喜んで参ります」。 強右衛門は援軍の知らせを持って、また走りに走るのだが。