高浜虚子と雨村・神津猛2007/11/25 07:35

『後凋(こうちょう)』の高浜虚子序文の続き。 雨村・神津猛の句が本格的 になったのは明治44年12月、健康を害して平塚の杏雲堂病院に入院した頃か らで、内藤鳴雪の門を叩いて、弟子の渡辺水巴を紹介され、師事した。 翌大 正元年11月、鎌倉雪の下に転地、水巴の紹介で、由比ヶ浜にいた高浜虚子を 訪ね、猛の俳句熱は益々高まったという。 虚子は当時、小説から句作に復活 したばかりの時期で「自分の復活後の句作には雨村君の刺激によることが大き い」と、書いているそうだ。 猛は虚子に禅をすすめ、二人連れ立ち東慶寺(円 覚寺の末寺)の釈宗演老師のもとに行った。 「後凋」というのは円覚寺管長 釈宗演老師が猛に与えた道号で、松柏(柏はヒノキ)が他の草木より後れてし ぼむという意味があり、転じて節を守って変わらぬということだそうだ。

「文豪・夏目漱石」展<等々力短信 第981号 2007.11.25.>2007/11/25 07:36

 両国は久しぶりだった。 江戸東京博物館は前にも来たことがある。 「そ のこころとまなざし」が副題の「文豪・夏目漱石」展は、一階の薄暗い会場だ った。 展示物保護のために照明を落としているのだろうが、細かい字を読む ものが多い展示と、中央に書棚風に設えられた洋蔵書の重厚さもあいまって、 陰気な感じが否めなかった。

 江戸牛込馬場下横町の名主の家に生まれた夏目金之助は、養子に出されて、 養家と実家を行き来する「厄介者」としての少年時代を過ごした。 大学では、 専攻した英文学の勉強に励んだが、いくら勉強してもなお、英文学のことも、 文学のことも、つかめないという不安と焦燥感に駆られた。 以来、神経衰弱 だった。 ロンドンで初めて、おかしくなったのではなかった。 今回知った のだが、ずっと、そういう状態だったのだ。 教師生活への不満も重なった時 期に、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を書き始める。 書くこと自体が楽 しく、精神のバランスを保って、作家漱石の誕生となる。 神経衰弱は、かつ てのノイローゼ、今日の「うつ病」だろう。 神経衰弱と共に歩んだ漱石の経 験と成功は、最近増えていると聞く「うつ病」の人に、勇気と希望を与える。

 展示品で、感じたものを、いくつか。 幾何の試験の問題や答案まで英語な のに驚いた。 先日「満韓ところどころ」を読んだら、旅で出会う同級生達が 満鉄総裁の中村是公始め、42歳でそれぞれ要職に就いていた。 「末は博士か 大臣か」の時代の大学生は希少価値があった。 教科書やノートに、細かい字 でびっしりと書き込みしていた漱石の勉強ぶりは、ロンドン留学時の書物やノ ートでは、さらに猛烈なものになる。

 晩年に津田青楓を師として描いたという、漱石の南画が気に入った。 絵や 色の優しい感じ、いかにも素人が一生懸命描いたというところがいい。 これ より先、「吾輩は猫である」の単行本化が決まった時、漱石は挿絵を中村不折と 浅井忠に依頼、装丁には新進の橋口五葉を起用した。 橋口五葉は見事期待に 応え、中村不折と浅井忠は、私好みの愉快な挿絵を描いた。 留学中にアール・ ヌーヴォーに触れ、洋書の装丁や挿画の重要性に気づいていた漱石は、美術的 な造本の分野でも日本の出版に貢献していた。

 漱石が学生時代を過ごした「東京」の写真として、『全東京展望写真帖』のそ れが展示されていた。 明治と同じ歳になる漱石21歳の明治21(1888)年に、 例の日本の水道の先生、W・K・バルトンが撮影したものだ。