「マネとモダン・パリ」展と福沢諭吉<小人閑居日記 2010. 5.2.>2010/05/01 19:52

 福沢諭吉がパリへ行った文久2年・1862年、エドゥアール・マネはまさしく パリにいて、たくさんの絵を描いていた。 「マネとモダン・パリ」展には、 1862年の作品が(頃や推定、描き始めの年も含め)何枚もある。 「テュイル リー公園の一隅」「気球」「街の歌い手」「大道芸人たち」「少年と犬」「ジプシー たち」「小さな騎士たち」「帽子とギター」「扇を持つ女(ジャンヌ・デュヴァル の肖像)」「オランピアのための習作」「オダリスク」。 テュイルリー公園は、 遣欧使節団一行が宿泊したホテル・ドゥ・ルーヴルのすぐそばにある。 満27 歳で、好奇心旺盛な福沢諭吉が、テュイルリー公園を見物に行き、マネが絵を 描いている横を通ったと想像することは、すこぶる楽しい。

 「モダン・パリ」は、「オスマンのパリ」と「パリ生活の光と影」として解説 されている。 長らくイギリスで亡命生活を送ったルイ・ナポレオン(ナポレ オン三世)は、近代化を成し遂げたロンドンの都市インフラに感銘を受け、パ リにも同様な革新をもたらしたいと強く望み、クーデターで第二帝政の確立に 成功すると、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマン男爵に命じて、パリの大改造 に着手する。 「マネとパリ生活」の章には、冒頭にアンリ・レーマン(「に帰 属」と出品目録にある)「セーヌ県知事オスマン男爵」の肖像があり、建設中の ボン・ヌフを始めとする改造中のパリの情景、駅や聖堂、劇場、万国博覧会の 建築などの透視図や設計案が展示されている。 オスマンによって大通りや公 園、ホテルや駅といった公共施設、オペラ座や劇場などの歓楽施設も整備され、 そこは都市生活者たちの華やかな娯楽と社交の場として発展していく。 それ はまさしく、福沢諭吉ら遣欧使節団一行が目にしたパリの姿であった。 ガス 燈の光やモニュメントのイルミネーションが街中を照らし出す一方で、帝国主 義の台頭による対外戦争の継続と社会格差の増大による不安は、都市に社会主 義思想の拡大をもたらしたと、展覧会の「パリ生活の光と影」は説明する。

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