小池昌代さんの「タタド」2012/07/15 03:20

 図書館の書棚で、小池昌代さんの『タタド』(新潮社・2007年)が目に入っ た。 Alex Katzという人の“Beach House”の絵が表紙になっている薄い本 だった。 評判は、3月に終ってしまったNHK BSの「週刊ブックレビュー」 で、聞いていた。 表題作のほか「波を待って」「45文字」の三短篇が収録さ れている。

 「タタド」は、東京から車で四時間半、イワモトとスズコの海の家が舞台だ。  二十年以上ともに暮している二人は、三年前にこの家を買った。 イワモトは 東京の家にいて週末をここで過ごすが、スズコはめったに東京に出ることはな い。 イワモトは地方テレビのプロデューサーで、中堅女優を聞き手にしたイ ンタビュー番組をつくっている。 出演している女優のタマヨは、四十五をす ぎるころから、ケンがとれていい顔になってきた。 頭がよくて機転がきき、 努力家である。 イワモトと結婚する前、スズコが出版社に勤めていた頃に同 僚だったオカダが、日曜日に寄りたいといって来た。 その日は、タマヨも打 ち合わせに来ることになっていた。

 赤いビートルで、久しぶりにやって来たオカダは、途中猫を轢いたような気 がすると話し、ひどく痩せていた。 見るからに質のいいものを、むかしから 大切に着ていて、素敵だ。 実は大腸の癌だが、「でも、まあ、治るらしいから。」  オカダが来ると、三人で浜に出るのが習慣だった。 前日の強い風で打ち上げ られていたカジメを拾い、ゆがいてサラダにすることにした。 オカダは昔、 残業帰りの晩い夜道で、スズコを抱き寄せて、やや強引にキスをしたことがあ った。 あとにも先にも、ただ一度のことだが。

 夕暮れてきたころ、スピード狂のタマヨがクリーム色のシトロエンで到着し た。 初対面のオカダは、その濃い空気感に魅せられた。 映画の画面を眺め るように、ぶしつけにタマヨを「観賞」している自分に気づきつつ、ついまた、 ぶしつけにタマヨを見た。

 スズコはタマヨがとても好きだ。 五十をすぎてもタマヨは美しい。 スズ コには疲れるとパニックになる病があって、そのパニックをおこしかけたとき に、たまたま傍にいたタマヨが支えてくれたことがあった。 タマヨの体を見 ているだけで、こころが平安に満たされていくのを感じる。 できればずっと 見ていたいと思う。 きょうもタマヨは美しかった。

 四人は、カジメの海藻サラダに、冷えた白ワインで乾杯した。 庭のほうで、 ぼたっと音がした。 夏みかんだった。 半端じゃなく、むちでたたかれるみ たいに、すごくすっぱい夏みかんをタマヨが食べたので、オカダも食べた。 風 が出てきた、暴風雨になるらしい。 オカダとタマヨは泊まっていくことにな った。

 四人は交代でオカダ、タマヨ、スズコ、最後にイワモトの順で、夏みかん風 呂に入った。 タマヨはスズコの、オカダはイワモトのパジャマを着た。 オ カダにはぶかぶかで、どう見ても長期入院の患者のようだ。 箪笥の奥にあっ たペアのパジャマを着た夫妻は、きょうだいみたいねとタマヨにひやかされ、 スズコは確かに互いを地続きの者として感じ、夫婦であることを、とても久し ぶりに恥ずかしく思った。 「パジャマというのは案外、生々しい。眠りに行 く、それはひとつの、いでたちのための衣装なのだった。スズコの胸に、その ときふと死装束という言葉が浮かんだ。」  イワモトがいつも使っているアロエ化粧水を、四人はそれぞれ顔に塗り、「掌 で頬を圧しじっと目を閉じる姿は、宗教者たちの、不思議なサークルのようだ った。」

 という訳で、何かが起こりそうでしょう。 もちろん、起こる。 遅い朝を 迎え、朝食までは、何も起こらないのだけれど…。 あとは、読んで下さい。