鉄砲洲に始まる<等々力短信 第1037号 2012. 7.25.>2012/07/25 01:34

 時代小説の新聞広告に色刷りの江戸切絵図があり(6月19日朝日新聞朝刊)、 「京橋南築地鉄炮洲」(文久元(1861)年)を見て、福沢諭吉は毎日海辺で、 潮の香を嗅いで暮していたんだな、と思った。 築地本願寺から本願寺橋を渡 って御軍艦操練所のある南小田原町の一角から、数馬橋を渡って田沼玄蕃頭と 松平周防守の間を右折した突き当たりの角地が、川に面して奥平大膳大夫、つ まり築地鉄砲洲中津藩中屋敷、慶應義塾の発祥の地だ。 対岸は明石町、すぐ 右に見える明石橋の先は、江戸湾である。

 朝日新聞の東京版、堀越正光さんの「東京 物語散歩」7月4日は車谷長吉さ んの〔鉄砲洲稲荷〕だった。 中央区湊1丁目、「鉄砲洲」というバス停の後 ろに稲荷の見える写真がある。 〔鉄砲洲稲荷〕収録の短篇集『妖談』(文藝春 秋・2010年)を読む。

 表題作は、駒込千駄木に住む私が赤ん坊をおぶって泣いている女のあとをつ けて行き鉄砲洲に至る。 私は赤ん坊を預けられ、ある家に入って行った女が 出て来ずに、いなくなる話だ。 「鉄砲洲は私の母校・慶応義塾が創立された 当時あったところである」。 車谷長吉さんは、昭和43(1968)年文学部独文 科を卒業した。 卒業後、広告代理店など勤務の傍ら小説を書き、新潮社新人 賞候補にもなるが行き詰まり28歳で失業、30歳から9年間は旅館の下足番や 料理人の下働きとして関西各地を転々とする。 編集者に促され上京、創作を 再開、48歳で母方の金貸一族を書いた私小説『鹽壷の匙』で芸術選奨新人賞と 三島賞を受け、「美貌で、東京大学卒」の詩人高橋順子さんと結婚する。

『妖談』の小説34篇には、慶應義塾が随所に登場する。 名は皆違うが、 ご自身を語っていることは明らかだ。 兵庫県飾磨の高校生の時、漱石の『こゝ ろ』を読んで将来作家になりたいと思ってから、53歳で強迫神経症になるまで、 一日、四時間以上眠ったことがない。 会社勤めのほかは、終始、本ばかり読 んでいた。 慶應四年の時、一年下の英文科一の美人に「あなたかならず作家 になる人だわ」と言われ、何が何でも作家にならなければと思う。(〔生麦〕) フ ランツ・カフカの全作品を原書で読みたいと進んだ独文科の主任教授は相良守 峯だった。 教授が「僕ぐらいの大学者になると、ファウスト博士の嘆きがよ く分かる」と呟いたのに、「えッ、誰が大学者なの」と言って、大学院の先輩二 人に呼び出され〔殴る蹴る〕の目に遭う。 作家になることは、人の顰蹙を買 うことだと気づく。(〔まさか〕) 以前「禁忌を犯して物語ることが、文学であ る」(「金と文学」)という車谷長吉さんの言葉を引用した(「等々力短信」938 号)。

車谷長吉さんの西行論2012/07/25 01:37

 車谷長吉さんの『妖談』(文藝春秋)を読むと、慶應には旧華族さまの末裔が 多く、兵庫県飾磨の農家から来た車谷さんは「何だ、土ン百姓か」と言われた とある。 〔目〕という短篇につぎのような記述がある。 高校を出るまで、 麦刈り、田植え、田の草採り、稲刈り、脱穀、麦播き、中かじき(私にはどう いう作業かわからない)、田んぼ仕事は何でもしていた、という。

 政府による麦の買い上げがなくなったのは、日本では戦後、自動車産業が盛 んになって、アメリカ合衆国の人に自動車を買ってもらう代わりに、米国産の 麦を輸入しなければならなくなったからである。 日本政府は、半ば農民を切 り捨てる政策に出て、自活できなくなった農民の多くは、田んぼを離れ、自動 車製造会社の非正規雇用の労働者になった。 百姓は「古事記」「日本書紀」の 時代から、いつも為政者によって小馬鹿にされて来たのであった、と車谷さん は言う。

 ここからの西行論が面白い。 西行、俗名・佐藤義清(のりきよ)、妻子を捨 てて出家し、世の無常を詠んだ歌人である。 この人が「人。」と言う場合、そ れは京都の貴族や僧侶、鎌倉武士だけを言うのであって、百姓などは「人。」の 内に入っていなかった。 西行の出家遁世の歌は、京都の貴族社会を捨てたと 言うだけあって、生家が所有していた紀州の広大な荘園の上がりを貰うことは 死ぬまで止めなかった。 荘園で百姓を扱(こ)き使い、その上に鎮座して、 世の無常を嘆いた人である、というのである。

 そういえば、私も、諸国を漂泊して草庵を結んだりした西行が、時折かしば しばか京都に帰ってきて、天皇家や上流婦人連と付き合い、歌会に出て歌を詠 んだりしているのを不思議に思っていたのだった。