《日本の自然・風景と建築》2012/07/13 01:38

 槇文彦さんは第二の特性《日本の自然・風景と建築》の話に移る。 コルビ ュジエに学んだ坂倉準三は1937(昭和12)年のパリ万博の日本館で、今でい うゴールドメダルを受賞したが、理性と感性の統合された日本最初の近代建築 といわれる(その流れは丹下健三へと続く)。 ヨーロッパは、理性の方が強い。  最初に理屈がなければならない。 日本は、古くから感性が強い。 自然と建 築が、関係している。

 日本列島は海べり、山べりに自然と共生しうる場所が多く、そこから一つの 自然感が生れた。 海辺の集落、山辺の集落(里山)、自然と融合したおだやか な田園風景がある。 その特徴として 、 a. 水平性の強調(地震とも関係している)

b. 非対称の美への関心

c. 都市・建築空間における「奥」性の存在

d. 個から全体の構築、間の概念

e. 回遊性

 等が挙げられる。 これは二千年にわたって海外、主として中国、韓国の文 化の影響を受けながらも、次第に自己化する事が空間(島国ゆえ)、時間的に許 されたからである。 侵略を受けずに、固有の文化を醸成できた。

 集落の原始的形態は、垂直方向に、山があり、山の下に集落があり、山から の川は集落を通って、田圃に注ぐ。 山には奥宮(山宮)、集落には里宮、田に は田宮がある。 「奥」という言葉には、奥義、奥座敷(京都の町屋)、奥庭、 奥の院、奥方、大奥など、見えない中心を表し、それを大事にする意味がある。  槇文彦さんは1978(昭和53)年『世界』に、この「奥」の思想について発表 した。(槇文彦他『見えがくれする都市』鹿島出版会1980年→脚注〔馬場メモ〕)  江戸の町はその形成過程で、細分化されていき、奥に向かって道が出来、さら にそこから細分化されていった。 愛宕神社なども、上にみた垂直の形態にな っており、当時、尾山台(標高15m)、三田(標高25m)も、歩くと空間の襞 の濃密さが感じられた。

 日本の都市は、中心=奥に向かう、求心性がある。 外国の都市は、城壁に 囲まれた中から、外へ向かう、遠心性がある。 アドレス・システムに、それ は表れ、日本は「品川区東五反田5丁目16番地」とあいまいだが、ニューヨ ークのマンハッタンなどだと縦横の道の名前と番号で場所が特定できる。 お 座敷は個の空間だが、その個をつなぐと、多目的に使える、全体像が生れて来 る、非対称のものが生れて来る(桂離宮の配置図を示す)。 日本の建築には「奥」 と「間」という空間の形式の特徴があり、それが日本の都市空間をつくり出す のに重要な役割を果たした。

 槇文彦さんは、ここで2006年に設計した島根県立古代出雲歴史博物館の写 真で、背景の太古と変わらぬ山を見せ、屋上に周囲を眺められるデッキをつく った話をした。 1997年の中津市の風の丘葬斎場では、別れの場では奥の暗さ を取り入れ、時間の経過と共に庭を巡回する形式にして、自然との融合を考え たという。

 〔馬場メモ〕私は「等々力短信」第270号から三回にわたって富士山につい て書き、その第二回、1982(昭和57)年12月5日の第271号に、こう書いて いた。 「書評からの孫引きだが、槇文彦ほか著『見えがくれする都市』(鹿島 出版会)で、槇さんは、富士山や筑波山を見通す線が、江戸の下町の町割を決 める基準線になったという大変面白い指摘をしておられる。槇さんは日本の都 市空間を説明する図式として「奥」というキー・ワードを提示し、それは私た ちの心のなかの原点だという。通りの突きあたりに見はるかされる神の山とし ての富士山は、江戸の町並みを引きしめる「奥」のたしかな標識だったという のである。(昭和55年7月14日付朝日新聞読書欄)」