「工部大学校阯碑」に出くわす2012/07/22 02:08

 18日、友人に誘われて、「霞が関寄席 立川談慶 霞が関独演会」という落語 会に出かけた。 立川談慶が慶應義塾大学卒で、株式会社ワコールに入社、退 社後立川談志に入門して「立川ワコール」という前座名だったことは知ってい たが、初めて聴くのであった。

 主催は霞が関ナレッジスクエアというところで、霞が関コモンゲートの西館 3階が会場だった。 東京メトロ銀座線の虎ノ門を降りて、外濠通りを古い文 部科学省ビルの前を溜池方面へ進んだ、霞が関ビルの手前が「霞が関コモンゲ ート」として再開発されている。 「コモンゲート」というのは、霞が関官庁 街の入口にあり、PFI(Private Finance Initiative)手法で開発された、文科 省、金融庁、会計検査院等中央官庁と帝人を始めとする民間企業が一つ屋根の 下にオフィスを構える、わが国で初めての新しいスタイルの街だからだそうだ。

 少し時間に早かったので、その前のあたりを歩いていて、「工部大学校阯碑」 に出くわした。 先日、槇文彦さんの講演に出て来た「工部大学校」である。  ここ霞が関コモンゲートの一帯は、江戸時代の虎ノ門内延岡藩邸を中心とした 地域で、明治6(1873)年工業分野における人材育成を目的として工学校(工 学寮内に設置)が開校し、同10(1877)年には工学寮が工部大学校と改称さ れた、日本の工学発祥の地だった。 工部大学校では、土木・機械・造家など の学科がイギリスを始めとする諸外国から招聘された外国人教師によって教授 されていた。 しかし工部大学校は明治19(1886)年に帝国大学と合併して、 その工科大学となる。 移転後の同校々地と建物は、帝室博物館、東京女学館 などが使用していたが、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊してしまい、 後にこの土地には会計検査院などの建物が建設された。 当時の面影がなくな ったため、工部大学校出身者たちが、この地に同校があったことを記念して、 昭和14(1939)年4月「工部大学校阯碑」を建立した。 この碑の素材には、 関東大震災で倒壊した建物の煉瓦などが使われた。 碑文を書いたのは、槇文 彦さんの講演で慶應の旧図書館を設計したと聞いた第1回生の曾祢達蔵だった。  「工部大学校出身虎之門会作之 虎之門会員工学博士曾禰達蔵撰」とある。