拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2 ― 2012/09/23 01:30
『福澤手帖』111号の拙稿「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」の、「和歌山と 福沢諭吉・慶應義塾」の部分の続きである。
「有田(ありだ)郡の醤油醸造業者で、抜擢され紀州藩の政治、教育の中枢 を担った浜口梧陵(儀兵衛)は、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校共立学 舎を開校する。 この時、福沢の招聘を図ったが、福沢は受けなかった。 な お醤油は有田に近い湯浅が発祥の地で、紀州の漁師が醤油で魚を食べる風習を、 いわし(金肥と呼ばれた肥料用)漁で出かけた千葉に伝えたのが、千葉の醤油 業の始まりで(浜口家は元禄期に銚子へ進出、現・ヤマサ醤油)、西川さんの補 足によれば浜口梧陵は後に醤油をアメリカに輸出し、世界一周の途中ニューヨ ークで客死した。 醤油と、刺身や江戸前寿司の関係なども、興味深いものが ある。
このように慶應の紀州出身者たちは、小泉信吉(塾長、その子信三も)、松山 棟庵(医学所校長)、和田義郎(幼稚舎の創立者)、鎌田栄吉(塾長)、草郷清四 郎(塾監)など、初期の慶應義塾で重要な役割を果たした上、小川駒橘(湯川 秀樹の祖父)、三宅米吉(歴史学者、考古学の先駆)も加え、いろいろな分野で 近代日本の形成に貢献したのであった。 立花秀浩氏は、この和歌山と慶應義 塾の関係を、和歌山の人々にもっと知ってもらい、これからもさらに深めてい きたいと、講話を締めくくった。」
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