福澤の近代社会論、個人の自由独立と平等2015/07/14 06:27

 小室正紀さんはここから、福澤の近代社会論が、封建制・パターナリズムと いかに違うか、という話に入った。 (『広辞苑』で「パターナリズム」をみる と、「相手の利益のためには、本人の意向にかかわりなく、生活や行動に干渉し 制限を加えるべきであるとする考え方。親と子、上司と部下、医者と患者との 関係などに見られる。」)

 『学問のすゝめ』(明治5~9年)には、ウェーランドの“The Elements of Moral Science”1835 『修身論』(小室さんは『近代社会論』といった方がいい、と) の大意を取って訳し、事例を加えているところが、少なからずある。 近代社 会の基礎、二つ。

 〈1〉個人の自由独立 Personal Liberty 「人の一身は他人と相離れて一人 前の全体を成し、自からその身を取扱い、自からその心を用い、自から一人を 支配して、務むべき仕事を務る筈のものなり」(8編) 自由に自分の能力を使 う。

 〈2〉平等 Reciprocity(相互性) 他の人の自由を妨げてはならぬ。 8 編「我もこの力を用い、他人もこの力を用いて、相互にその働を妨げざるを云 う」 事例、男尊女卑批判「世に生まれたる者は、男も人なり女も人なり」、親 孝行論を批判。 11編「名分以て偽君子を生ずるの論」 東洋社会で Reciprocityを妨げている要因=パターナリズム(社会の関係を親子の関係のよ うに考える)、擬制家族的社会。 「あたかも世の中の人間交際を親子の間柄の 如くになさんとする趣意なり。」 「今一国といい一村といい、政府といい会社 といい、すべて人間の交際と名づくるものは皆大人と大人との仲間なり、他人 と他人との附合なり。この仲間附合に実の親子の流儀を用いんとするもまた難 きに非ずや。」

 封建社会における権力の偏り、そのために起こる偽善、個人の抑圧⇒明治30 年の福澤は、かつて、⇒あれほど厳しく批判したパターナリズムを再評価した のか。 小室さんは、否という。 そして、他の意図があると考えるべきだと して、なぜ福澤は「情愛の温かな」関係を推奨したのか、を考える。