戦中戦後の寺崎英成一家と歴史的資料の発見2015/08/05 06:35

 帰国後の寺崎英成一家は、兄の太郎や弟の平(たいら、国立立川病院院長を 務めた医師)に支えられてはいたが、戦時中の日本における生活が「敵国人」 のグエンにとって辛いものだったことは、言うまでもない。 終戦後、英成は 終戦連絡中央事務局に配属され、日本政府と占領軍総司令部との間の連絡業務 を担当したが、昭和21(1946)年2月には宮内省御用掛を命ぜられ、天皇陛 下の通訳官及びGHQに関わる諸問題についてのアドバイザー役を務めること になる。 天皇とマッカーサー元帥との会談に数回(最初の回は違うが)、単独 の通訳として立ち会っている。

 『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』の「はじめに」で、半藤一利さん は「御用掛としての寺崎が、満点の働きをしていることに驚かされる。フェラ ーズ(マッカーサー元帥の軍事秘書)をはじめ、政治顧問アチソン、副官バン カー、諜報担当官グリーン、さらに外交局長シーボルトらと、実に頻繁に交際 し、天皇の気持ちをGHQ(連合軍総司令部)に伝え、GHQの意向を宮中、政 府に伝える連絡係の役を十全にはたしている。そして身も心もすり減らした」 と書いている。 マリコ・テラサキ・ミラーは、同書の「記録の発見と公開に ついて」で、寺崎がワシントンでの日米開戦回避のための懸命の努力の無理が たたって健康を著しく損ねており、戦後は宮内省御用掛を務め、昭和26(1951) 年8月21日に脳溢血で他界した、と書いている。 グエンとマリコは、昭和 24(1949)年8月、病床に臥す寺崎の強い勧めに従って、主としてマリコの教 育のために渡米していた。 昭和33(1958)年母娘は、父の墓参とグエンの 書いた自伝『太陽にかける橋』(小山書店)のために来日、その時、弟の平に渡 された父の遺品の中に、貴重な記録が残っていたのだった。 マリコの息子コ ールが、知り合いの大学教授を通じて東京在住の日本現代史研究の権威に見て もらい、平成2(1990)年に「歴史的資料として稀有なもの」と判明した。 そ れが「昭和天皇独白録」「寺崎英成御用掛日記」である。 「独白録」は、昭和 21(1946)年の3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総 裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の5人の側近が、 張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を4日間計5回にわたって、昭和天 皇から直々に聞き、まとめたものだった。 その存在と内容は、稲田周一宮内 省内記部長の『側近日誌』によって、断片的には知られていた。

 私は『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』に、平成13(2001)年12月 14日付朝日新聞朝刊の「切り抜き」が挟んであった。 記事には、こうある。 こ の「独白録」の原本とされる「聖談拝聴録」などの皇室関係文書について、内 閣府の情報公開審査会が13日、「それらの資料は存在しない」とした宮内庁の 非公開決定を妥当とする答申を出した。