終戦を決めた鈴木貫太郎首相と天皇2015/08/12 06:38

 8月に入って、鎌田銓一、寺崎太郎・英成兄弟、そして「統帥権」のことを 書いている間に、5日NHK総合「歴史秘話ヒストリア」選で「天皇のそばに いた男 鈴木貫太郎 太平洋戦争最後の首相」が放送された。

 鈴木貫太郎は、慶應3(1867)年生れ、海軍兵学校を出て、日清・日露両戦 争に参戦、海軍次官や、大将になり連合艦隊司令長官、軍令部長などを歴任し た。 予備役になった後、昭和4~11(1929~36)年の8年間侍従長兼枢密顧 問官を務め、昭和天皇のよき相談相手となり、その篤い信頼を受けた。 二・ 二六事件では、「君側の奸」だと自宅を襲撃され、頭部や胸、腹に銃弾を浴びた。  妻たかが「とどめだけは待って下さい」と言ったため、大量の出血はしたが、 一命はとりとめた。 たかからの連絡を聞いた天皇は、叛軍だとして討伐命令 を出した。 たかは、明治38~大正4(1906~15)年皇孫御用掛として、迪宮 (みちのみや・昭和天皇)の養育に当たった。 侍従長・首相だった鈴木に、 昭和天皇は「たかはどうしておる」「たかのことは、母のように思っている」と 言ったという。

 昭和20(1945)年4月7日、天皇の懇願もあり、鈴木貫太郎は首相に就任 した。 「軍人は政治に関わるべきでない」という信念のあった鈴木は固辞し たが、天皇は「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、 もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と述べ たと侍立した藤田尚徳侍従長の証言がある。

 5月7日、ドイツは無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終り、日本は孤立 した。 7月26日米・英・中3国のポツダム宣言が発せられた。 連合国は、 日本軍の無条件降伏、日本本土の占領、戦争犯罪人の処罰などを要求していた。  8月6日、広島に原爆が投下された。 長崎への原爆投下とソ連の参戦があっ た8月9日から10日未明に開かれた最高戦争指導会議で、東郷茂徳外相はこ れが戦争終結の最後の機会になるとして、「国体護持」の条件をつけてポツダム 宣言の即時受諾を主張し、鈴木貫太郎首相と米内光政海相と平沼騏一郎枢密院 議長が同意したが、阿南惟幾陸相は梅津美治郎参謀総長と豊田副武軍令部総長 の同意を受け「国体護持」に、保障占領は行わない事、武装解除と戦犯処罰は 日本が行う事を加えた4条件付受諾を主張して激論となり、結論が出なかった。  10日午前2時、鈴木首相が起立し、「まことに異例ではございますが、これよ り私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定としたいと 存じます」と述べた。 昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務 大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。

 「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の 下に」ポツダム宣言を受諾するという日本の申入れと照会に対し、アメリカの バーンズ国務長官は「降伏のときより天皇および日本国政府の国家統治の権限 は連合国最高指揮官に従属するものとす。最終の日本国の統治形態は、国民の 自由に表明する意志により決定せらるべきものとす」との回答を通告してきた。  8月12日、軍部や平沼枢密院議長は、これでは国体護持の保障がないとし、再 照会と、保障が得られないときは戦争を継続すべきだと主張した。 連合国の 回答にもられたアメリカの真意は、暗に日本の申入れを認めたものだという在 外公館からの電報が外務省に入る。 鈴木首相は、それを天皇にも知らせたと される。

 8月14日、再度の御前会議が開かれ、鈴木首相は「畏れ多いことながら、再 度の御聖断を」仰ぐことになる。 天皇の決定で、無条件降伏がきまった。 8 月15日、終戦。 昭和天皇は、「私と肝胆相照した鈴木であったからこそ、出 来たのだ」と述べたという。