幼い手で抱きしめたもの2015/08/25 06:37

等々力短信 第906号 2001(平成13)年8月25日

 「戦争・占領・講和」時代の本を読んできた流れで、ジョン・ダワーの『敗 北を抱きしめて』上下(岩波書店)にとりかかっている。 カバーの「まとめ」 を引けば「焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士がそこに見出したのは、驚 くべきことに、敗者の卑屈や憎悪ではなく、平和な世界と改革への希望に満ち た民衆の姿であった。 勝者による上からの革命に、敗北を抱きしめながら民 衆が力強く呼応したこの奇跡的な『敗北の物語』を米国最高の歴史家が描いた」 ピュリッツァー賞受賞作である。 何年ぐらい前だっただろうか、アメリカの 歴史研究のやり方が変ってきたという話を聞いた。 われわれが習ったような 政権の興亡、つまり「お上」の歴史から、その下で生きていた民衆の生活や人 生から時代を描く歴史への変化である。 ダワーの本は、その一つの見本で、 そこに描かれた時代は、幼時とはいえ、まさに私自身が実際に生きた歳月だっ た。

 日本が占領されていた時期、私は4歳から11歳までだった。 占領軍では なく、進駐軍と呼んでいた。 闇市も、浮浪児も、パンパンも、第一生命がG HQで、銀座の和光や松屋がPXだったことも、尾張町交差点の台上でMPが 派手な身振りで交通整理をしていたことも知っている。 蒲田の闇市ではGI が「テンエン(10円)、テンエン」と叫びながら、リグレーのチューインガム やハーシーのチョコレートを売っていた。 焼け残った中延の家には一時、空 襲で焼け出された工場の従業員が何人も同居していたし、近所に借りた土地の 畑でサツマイモやジャガイモなどを作っていた。 砂糖がなく、お菓子といえ ば芋飴ぐらい、皿に張り付いたのを割ろうとすると、皿まで一緒に割れたりし た。 バナナという美味しい果物があったことは聞いていたが、見たことがな かった。 だいぶ経って、父がようやく乾燥バナナなるものを手に入れてきて、 初めて口にした。 黒く汚いそれは、期待に反して、まったく不味いしろもの だった。

 第二京浜国道の向こう側にあった床屋へ行こうとして横断中、横浜方面から 来た進駐軍のジープに轢かれそうになった。 急ブレーキをかけて止ったジー プから、GIが英語で怒声を浴びせた。 後で考えれば、アメリカの技術文明 のおかげで、命拾いをしたのだった。 あのブレーキが利かなければ、それ以 前に、原爆が東京に投下されていれば、ポツダム宣言を受諾せず昭和21年3 月に九十九里浜上陸関東平野進攻作戦(コロネット)が予定通り行なわれてい たら、いま、私はこれを書いていない。

竹田行之さんを悼む<等々力短信 第1074号 2015.8.25.>2015/08/25 06:39

竹田行之(こうし)さんが5月25日に亡くなられたのを、先月の号を出す まで知らなかった。 毎月返信を頂く方の葉書で知ったのだった。 竹田さん は、短信のよき読者で、しばしば鋭い感想や、豊富なご体験からくる関連の挿 話のお葉書を頂戴した。 線のない葉書だと、ご自身で線を引いて書かれると ころに、几帳面な性格が表れていた。 近年は郵送でなく、電子メールでお送 りしていた。 不達の通知がなかったから、まだメールアドレスはそのままで、 天国でお読み頂いているのかもしれない。

 竹田行之さんが校訂・注解された『小泉信三書簡 岩波茂雄・小林勇宛百十 四点』(慶應義塾福澤研究センター 近代日本研究資料(9))奥付に、紹介があ る。 「1927年神戸に生まれる。1950年慶應義塾大学経済学部卒業。岩波書 店入社。編集部に所属し、1970年代から80年代初めにかけて編集部副部長、 編集部長。1988年退職。1991年社団法人福澤諭吉協会の理事に就任、同年か ら2004年まで『福澤諭吉年鑑』『福澤手帖』の編集にあたる。理事は2001年 に退任。執筆書に『交詢社の百二十五年―知識交換世務諮詢の系譜』(交詢社、 2007年、慶應義塾大学出版会制作、非売品)。」

 1992年福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で横浜に行き、『福澤手帖』73に「日 本の「窓」ヨコハマ」を書かせてもらった。 ホテルニューグランドで昼食、 「数取器をカチカチいわせつつ謹厳な表情でスターライトグリルを三度往復さ れた竹田理事」の「鄙事多能」の姿をとらえていた。 一番の思い出は「バル トンとバートン」である。 1995年3月の短信に、明治日本の水道の先生で浅 草十二階(凌雲閣)の設計者W・K・バルトンが、近代日本のシナリオとなっ た福沢諭吉の『西洋事情』に大きな影響を与えたジョン・ヒル・バートンの長 男だったことが判明した、と書いた。 以来、竹田さんは私に、研究を進めて 裏づけを取り、周辺のことも調べて、『福澤手帖』に書くように、たびたび促し た。 その執拗な編集者魂のおかげで、まがりなりにも102号(1999年9月) に「バルトンとバートン」をまとめることができたのである。 4年が経って いた。

 1993年、司馬遼太郎さんが文化勲章を受章して「小説は書生でないと書けな い。明日からは忘れます」と述べたのを「生涯一書生」という短信に書いた。  その時、竹田さんから頂いた葉書。 「馬場さんと同じく、私も、うなりまし た。人爵よりも天爵を貴しとする人のことばです。司馬さんと同じ様に、敬虔 であり、もの書きの本来の心構えをもった方々幾人かと、編集者という仕事を 通じて出会えたことは、私の生涯の幸せでしたが、そのおひとりが富田正文先 生です。『福澤手帖』次号は追悼特集で、ただ今作業を急いでいます。朝夕が少々 寒くなりましたので、お大事に。」