メニュー(井上成美という人)2015/08/23 06:45

 等々力短信 第410号 1986(昭和61)年11月25日

 私の年代では、中将とか、大将とか、いわれても、どれだけ偉いのか、わか らない。 開戦時、井上成美は中将、第四艦隊司令長官であった。 四艦隊は トラックの夏島を基地に、中部太平洋正面の防衛を担当する重要部隊であった が、実戦力はたいへん貧しく、老朽艦や商船を徴用した「見敵必沈」の特設砲 艦などの、寄せ集め艦隊だった。 井上中将の将旗を掲げる「鹿島」だけは新 鋭艦だったが、候補生の練習航海用に設計された艦で、司令部はおけても、本 格的な戦闘能力は持っていないという有様であった。 昭和十七年五月、四艦 隊はポートモレスビー攻略の任務を帯びて、珊瑚海海戦を戦い、応援の為参加 していた小型改造空母「祥鳳」を撃沈される。 日本の喪った最初の空母であ った。

 そんな負け戦の後でも、旗艦「鹿島」での昼食は、優雅なフルコースという のが、海軍の伝統だった。 暑くても肩章のついた白上着をきちんと着て、金 色、銀色の縄を吊った全幕僚が着席すると、井上中将が入室、食卓正面中央に 坐る。 そして中将が、スープのスプーンを取り上げると同時に、上のデッキ に待機していた軍楽隊が、「椿姫」とか「ハンガリア舞曲」とかの演奏を開始す る。 それはやがて日本民謡メドレー風の調べに変わり、アイスクリームとコ ーヒーのすんだあとも、暫くつづくのが常であったという。 メニューには、 その日の献立と、軍楽隊の演奏曲目が、印刷してあった。

 敗戦時、井上成美は大将だった。 前年から、次官として、一億玉砕を回避 するための、終戦工作に携っていたのだが、昭和二十年五月、米内大臣の考え で、最後の海軍大将に昇進、次官を辞める。 十月、予備役となった後は、世 間から姿を消し、横須賀市長井の崖の上の家に隠棲、清貧と孤独に徹して、以 後三十年を生きる。 初めは、戦争未亡人の娘と孫に女中の四人ぐらしであっ たが、貯蔵物資はすぐに底をつき、目ぼしい家財道具や衣類も次々に売り払っ ていく。 それでも、頼まれて近所の子供たちの為に始めた、英語塾の月謝を 取ろうとしなかった。 海岸で貝やウニやトコブシを拾い、海水を汲み上げて 自家製塩を試みたり、ひじきの黒い煮汁を醤油がわりに使ったりした。 近く の農家だった女中の父親がみかねて、時々塩や沢庵や本物の醤油をこっそり届 けさせたりしている。

 毎年、八月十五日が来ると、井上成美は、朝一杯のお茶を飲むだけで、海軍 の礼服をつけ、終日海の方に向って端坐、瞑目、一切の食物を摂ろうとはしな かったという。