昭和天皇はどう語ったか2015/08/13 06:44

 あらためて、寺崎英成の記録した「昭和天皇独白録」で、昭和天皇がどう語 っているかを、読んでみた。 『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文藝 春秋・1991年)で、それぞれの項目に、半藤一利さんの解説〈注〉がついてい る。

 ○張作霖爆死の件。(昭和3(1928)年)

「この事件の主謀者は河本大作大佐である。田中義一総理は最初私に対し、こ の事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめた のであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と 云ふ事であつた。」「然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、日本の立 場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやになつて 終つた。」「そこで田中は再び私の所にやつて来て、この問題はうやむやの中に 葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は 田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い 語気で云つた。」「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へ てゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中 内閣は総辞職した。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本 は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことにな つたと云ふのである。」「(内閣の倒(こ)けたのは)重臣「ブロック」とか宮中 の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを真に受けて恨を含む一種の空気が、か もし出された事は、後々迄大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を 受けた点が尠くないのである。」「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所 のものは仮令(たとえ)自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決 心した。」

 ○二・二六事件(昭和11(1936)年)

 「当時叛軍にたいして討伐命令を出したが、それに付ては町田忠治を思ひ出 す、町田は大蔵大臣であつたが金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる所 置を採らねばパニックが起ると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出す事 が出来た。」(〈注〉に『木戸日記』の「特に、海外為替が停止になったら困ると 考えていた」がある。)「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必 ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時と の二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」

 ○南仏印進駐(昭和16(1941)年)

 「小林一三商工相が先方に出向いて和蘭当局との間に開いた蘭印との通商協 定会談(石油其他特殊品の輸入に付て)が二月頃から不成立の見透が付き始め るや、陸海軍は共に南仏印進駐の計畫に乗り出した。」「武力で嚇せば対手は引 き込むと考へるのは陸海軍の悪い癖で満洲問題でもそうだしこゝでも亦その手 を用ゐた。」「この進駐は初めから之に反対してゐた松岡(洋右外相)は二月の 末に独乙に向ひ四月に帰つて来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいき になつた、恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思はれる。」 「現に帰国した時に私に対して、初めて王侯の様な歓待を受けましたと云つて 喜んでゐた。一体松岡のやる事は不可解の事が多いゝが彼の性格を呑み込めば 了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、又条約などは破棄して も別段苦にしない、特別な性格を持つてゐる。」「松岡は独乙から帰朝の途ソ聯 と中立条約を結んだ。之は独伊ソを日本の味方として対米発言権を強める肚に 過ぎない、…」「六月(22日ドイツがソ連に侵攻、その直後)松岡はソ聯との 中立条約を破る事に付て私の処に云つて来た、之は明かに国際信義を無視する もので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云つたが、近衛は 松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣閣僚刷新を名として総辞職した。」