「A級戦犯」という言葉2015/08/27 06:38

 『文藝春秋』9月特別号で、つぎに読んだのは、大特集「昭和九十年」日本 人の肖像。 「父を靖国から分祀してほしい」、A級戦犯・木村兵太郎(刑死) 長男の訴え。 木村太郎さんに、中島岳志北海道大学大学院准教授が聞いてい る。 私が「A級戦犯」という言葉を、正確には知らなかったことが判明した。  東京裁判(極東国際軍事裁判)では、平和に対する罪、通例の戦争犯罪(捕虜 の撃退等)、人道に対する罪、の三つが裁かれることになった。 A級、B級、 C級の違いは、被告の地位や責任の重さによるものでなく、A級は「平和に対 する罪」、B級は「通例の戦争犯罪」、C級は「人道に対する罪」を対象とする ものだった。 しかし、インドのパール判事が主張したように、A級とC級は 事後法だった。(このことについては、中島岳志さんの『パール判事 東京裁判 批判と絶対平和主義』白水社・2007年がある)

 木村兵太郎は、平和に対する罪(A級戦犯)として裁かれる。 木村兵太郎 は、砲兵科で陸軍の中の技術系、兵器局長を務め、昭和16年4月に阿南惟幾 の後任で陸軍省次官となり、10月の東条英機内閣でも留任する。 東条内閣崩 壊後、昭和19年インパール作戦の失敗で敗色濃厚のビルマ方面司令官となる。  降伏後、巣鴨プリズンに収容され、昭和21年5月3日からの東京裁判に臨む。  長男木村太郎さんは、初めての本土爆撃となった昭和17年春のドゥーリット ル空襲で、捕虜を裁判にかけて処刑した事件のとき、次官だった木村が命じた ものとして訴追された、次官はあくまでも補佐役で歩かに大きな罪状となるも のもなく、極刑の対象となったのは謎という他ない、と言う。 今ではイギリ スによる報復だったのではないか、と感じている。 シンガポールを攻略され た屈辱と捕虜として泰緬(たいめん)鉄道建設に従事させられて虐待を受けた 恨みは極めて根強いものがあった。 最後にビルマで英軍と対峙していた父以 外に、対象者がいなかったからではないかと推測している、と言う。

 判決の昭和23年11月12日当日、当時暮していた大阪で、祖母や姉とラジ オを聞いていて、「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」には、頭から冷水を浴 びせられた程の衝撃だった。 A級戦犯は、12月23日に巣鴨で刑が執行され、 遺骨はほとんどが海に撒かれた。

 木村太郎さんは、言う。 世の中でまずいことが起きたり、失敗したりする とマスコミは、その責任者をすぐに「A級戦犯」は誰それだ、と表現するけれ ど、遺族の立場から言わせてもらえば、これほど不見識なことはない。 中島 岳志さんは、それに応え、「そもそもA級戦犯とは罪の重さではなく、「平和に 対する罪」という東京裁判でのカテゴリーを指すものです。現在の用法は、完 全に間違っていることはしっかりと伝えたいですね。」と、語っている。

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