寺崎太郎著の私家本『れいめい』2015/08/06 06:34

 これも黄色くなった「切り抜き」が出て来て、わかったのだが、先日亡くな った鶴見俊輔さんが、『文藝春秋』昭和57(1982)年11月号の「読・書・日・ 録」に、寺崎太郎著『れいめい』(中央公論事業出版・1982年6月15日発行・ 私家版)のことを書いていた。 それを読む前だったろう、何かで『れいめい』 が外交評論の月刊個人雑誌だと知り、個人通信を出していて、その本を読みた くなった私は、どうやって調べたかも忘れたが、寺崎太郎さんに手紙を書いて、 入手方法などを訊ねた。 同封したハガキによるお返事は、おそらく奥様幸子 さんの筆で「御手紙ありがとうぞんじました。お読み下さるとの事、大変うれ しく早速お送り申し上げます。代金の事、無用でございます。どうぞよろしく お願い申上げます。十月十八日 寺崎」だった。 以来、立派な製本の、亡弟 寺崎英成筆の題字という『れいめい』は、私の書棚にある。

 寺崎太郎さんは、明治30(1897)年生れ、芝中学校、一高、東大在学中外 交官試験に合格、大正11(1922)年東大卒業後、外務省に入る。 外務省在外 研究員として滞仏3年、パリ法科大学の学位、パリ政治学校卒業証書を受けた。  本省の各局、各地の在外大公使館に勤務し、第二次、第三次近衛内閣の下にア メリカ局長として太平洋戦争防止のため日米交渉を主管したが、近衛内閣総辞 職とともに東条内閣出現に先立ち官を去った。 戦後、第一次吉田内閣に招か れて外務次官に就任したが、思うところがあり、同内閣総辞職に先立ち辞任。  再度の下野後、全国各地で講演活動をし、独力「寺崎外事問題研究所」を設け、 昭和25(1950)年1月から43(68)年3月まで18年間、月刊の外交啓蒙誌 『れいめい』を発行した。

 冒頭『れいめい』創刊の辞「外交は常識である」がある。  「近衛内閣の下の日米交渉は、ありとあらゆる内と外の悪条件のもとに行わ れたのである。そして仮りに不成立に終わったにせよ軍部が政府を無視して、 時の外交上のねらいをそばから破壊するような仏印出兵(旧憲法の統帥権の悪 用)がなく、一般大衆がもっと国際問題に関心を持つように育て上げられてお り(嫌いな言葉だが当時の事情からは仕方がない)国会でも党利党略から離れ た正しい討議が活発に行われなかったら承知しないぞ! と国会を監督するだ けの気魄の一般有権者がたくさんあったなら、ことに当時の若いといわず、年 をとったといわず日本の女性が戦争という大量な人殺しに愛人を、兄弟を、夫 を、子を送り出すことを拒んだならば、と今さらながら思うのである。」

 「(日本人は)自分自身のしっかりした意見がなく、かつ国際事情にうといた めに歴史上稀に見る敗戦をなめたが、同時にわれわれの祖先がかつて持たなか った「自由」を得た次第である。」「この「自由」である。われわれ日本人には まことに不馴れな宝物であるのみならず、米英先進民主国民が永い年月をかけ 歩一歩かち取ったのに反し、いわば敗戦のさずかりものみたいなために、その 貴さが身に沁みない向きがあるのもまた致し方ない。しかし私たちはこれを取 り逃がしては大変だ。どうしても一生懸命努力してこれを内容つけ「自由の歴 史的経験をもたぬ日本人」というありがたくないがピッタリと当たっている汚 名を返上しなくてはならない。過去において日本に「自由」がなかったのは、 日本人があまりに国際事情にうとかったからでもある。またそういうふうに仕 上げられて来たのである。ところで自分は名もない外交畑出の一職工であり、 外事問題の研究を念とするものであるから、この問題に一般の関心を仰ぎたく、 ささやかなこの『れいめい』を敢て刊行した次第である。」

 「民主主義は、「英雄」を必要としない。われわれは「英雄崇拝」や「偉い人」、 「指導者」による政治には懲り懲りした。平和を愛する、真っ当な「平凡人」 のつつましくとも和やかな日本を創り出したい。『れいめい』の主人公はこの「平 凡人」に外ならぬ。」(昭和24(1949)年12月20日)

月刊『れいめい』発行のいきさつ2015/08/07 06:35

 『れいめい』のご本にある、月刊『れいめい』発行のいきさつが興味深い。  『れいめい』は、漢字で書けば「黎明」、夜明けの意味である。 太平洋戦争が 終わった時、寺崎太郎さんは御殿場線沿線の曾我の里に「閑居」していた。 下 曾我駅で下車して徒歩約20分の上曾我村で、梅林の真っ只中にある純農村だ った。 下曾我駅付近の人びと(主として青年)は、上曽我と雰囲気が少し違 い、いわばインテリで、職業もさまざまであり、ことにそこの青年団が、腐敗 した村のボスどもに、にらみをきかしていたのは、心強い限りだった、という。  そうした若人たちが、寺崎太郎さんの家に集まるようになった。 すでに社会 に出て、職業に就いている人、家業にいそしんでいる人、学生と、色とりどり だった。 集ってくるのは、夜の8時頃になり、番茶におせんべいで文字通り の談論風発となり、たいてい夜中の2時3時になった。 彼らの胸底を等しく 支配していたのは、やるせない虚脱感だった。 これからの人間として生きて 行く目標をどこに置くかについて暗中模索し、苦しみぬいていたからである。  わずかに救いとなったのは、「文化国家」・「平和国家」という、二つの“お題目” が、混乱裡にもどこからともなく叫びつづけられることであった、と寺崎太郎 さんは書いている。

 上曽我在住の昭和21年6月、第一次吉田内閣外務次官に就任した。 その 前も、外務次官辞任後も、ときおり、国際問題についての講演を頼まれた。 当 時の世相の要求だったのだろう。 寺崎太郎さんは、昨日見た『れいめい』創 刊の辞「外交は常識である」にある考えを持っていたので、近村はもとより、 遠く各県の辺鄙な村へも出かけて話をした。 国鉄は全国一等のパスをアメリ カ局長時代以来発給してくれていた。 宿舎は主催者側関係者の民家に泊めて もらい、家族と同じものを食べさせてもらった。 もちろん謝礼は辞退。 薩 長土肥のような南国の連中の役目は完了した。 日本に「民主主義の根をおろ させ、花を咲かせ、実を結ばせる」という、長期建設的事業と取り組むにはハ デでなく、ねばり強い東北人にこそ期待すべきではないかと思い、東北地方に 重点を置き、それも重要都市でなく、山奥の宮城県筆甫(ひっぽ)村、南会津 の田島や荒海(あらかい)へ入りこんだ。 荒海には二度ほど行ったが、中年 の男たちがとくに熱心で、「たびたびお出でを願ってお話をうかがいたいが、そ れは、あまりにもあつかましい。だから、ガリガリ版でいいから、なにか雑誌 のようなものを出して、私たちに読ませてくれませんか」と言う。

 刊行物となれば、ガリガリ版では淋しい、やはり普通の印刷にしたい。 上 曽我の家の青年たちの議に付して、誌名は「民主主義日本の黎明を招く」と言 う意味合いで「黎明」と決まり、表題は本字ではむずかしいから、平仮名で「れ いめい」と記すことになった。 編集方針は、“不偏・不党・無色・透明”にお き、したがって広告は、歯をくいしばっても一行もとらない。

 『れいめい』は、このように寺崎太郎さんの暮し方の中で生まれ出たのであ った。

 私は、維新後の明治前半期、全国各地の青年たちが、人民の権利や自由の拡 大、国会開設や憲法制定について、いろいろと勉強し、談論風発した自由民権 運動を連想した。 明治13(1880)年、福沢諭吉は門下生松本福松を通じ相 模国(神奈川県)9郡の総代から依頼され、国会開設の建白書、相州九郡『国 会開設ノ議ニ付建言』をみずから起草した。 多摩の五日市青年グループが学 習して「五日市憲法草案」をつくった話は、昨年7月12日から16日までの当 日記に書いた。

開戦にいたる外交の裏話2015/08/08 06:29

 鶴見俊輔さんは「読・書・日・録」で『れいめい』について、寺崎太郎さん を「それにしても、この人には、波風をおこす力がそなわっていた」といい、 「その人が我慢に我慢をかさねた1930年代の外交の裏話がこの本には次々と 出てくる」と紹介している。

 本の口絵写真(少ないのが残念だが)にも演説している姿があるエピソード。  昭和15(1940)年秋、アメリカ局長として、来日した日系二世代表団に対し て、外務大臣官邸で挨拶し、「もし不幸にして日米戦わば、アメリカ国籍をもつ 諸君は潔く銃をとってアメリカのために戦え」と述べた。 鶴見さんは、「これ が彼の信じていた、外交の常識だった。それを公然と昭和15年に日本におい て述べるのは、勇気のいることだったにちがいない。」と書いている。

 寺崎太郎さんの言葉は、その通りの展開となった。 開戦当初は徴兵対象か ら排除されていたが、米国陸軍省は、日系市民協会などの働きかけにより昭和 18(1943)年1月に日系二世部隊の結成を決定した。 戦時中全体で約3万3 千人の日系人が従軍したが、なかでもハワイですでに結成されていた第100大 隊と、強制収容所での審査を通った二世からなる第442部隊の活躍は有名で、 主としてイタリアとフランスで独伊軍と戦い、1万人近い死傷者を出しながら、 多くの戦功をあげた。 太平洋戦線では、主として連合国翻訳通訳班に所属し て活動した。 このような日系人部隊の活躍は、戦後のアメリカにおける日系 人差別の緩和に大きく貢献した、といわれる。

私も第442部隊の葛藤と活躍を描いた映画『二世部隊』を憶えていた。 昭 和26(1951)年の製作で、その年の暮MGM日本支社再開第1回公開作とし て上映された。 最近、作家の辻仁成さんが第442部隊に関わる小説『日付変 更線』上・下(集英社)を刊行したらしい。

寺崎太郎さんが、ロンドン大使館書記官だった時、海軍軍縮問題でイギリス と交渉したことがあった。 日本側は、政府の訓令に基づいて、海軍がひねり 出したヴァルネラビリティー(脆弱性)という論法、日本の国土は南北に長く 横たわっているので、攻められやすく、脆弱だから、英米日5・5・3だった海 軍力の比率を、英米なみに引き上げろ、と申し込んだ。 とんでもない理屈だ が、本省が海軍に押しまくられ、それが政府の訓令となって来た以上、熱心に これを相手方に認めさせるべく努めるのが外交官の役目である。 果して、イ ギリス側にコテンコテンに論駁されてしまった。

駐英大使や参議院議長を務めた松平恒雄さんは、会津の殿様の家柄で、寺崎 太郎さんが外務省に入った時の欧米局長だった。 松平さんに「外交は常識だ よ」と教えられた。 外交は、手品でも魔術でもない、常にその背後にある本 国、祖国の実力の裏うちがあって初めてものをいうのである。 言い換えれば、 すべて数字がものをいうということだ。 当時海軍は「艦隊派」と称する荒っ ぽい連中が幅をきかしていた。 海軍は英米と同じ海軍兵力をただちに日本が 持つことを英米に条約の正文で認めさせろというのだ。 当時の重光葵外務次 官始め外務当局は数ヵ月にわたって、この暴論を頑として受け付けなかったの で、海軍は直接外務大臣に当る。 ある閣議の終了後、時の岡田啓介首相(昭 和9(1934)年7月~11年3月)、広田弘毅外務大臣、大角岑生海軍大臣の3 人が居残り、わずか20分でこの暴論、対米海軍均等兵力即時実行を鵜呑みに してしまった。

寺崎太郎さんは、この事件を「日本壊滅の前奏曲」である、として三つのこ とに注意すべきだとしている。 (1)「外交は常識である」ことを完全に無視 した。 (2)日本人が国際事情に暗く、アメリカの国力を過小評価し、かつ 日本の国力を過大評価し、盲蛇的であった。 (3)これだけの大問題が、国 民の全く関知せざるうちに、わずか三閣僚の間で決定した。 すなわち民主的 な取り扱われ方はされなかった。

寺崎さんは、この主張をすれば、必ず英米が接近し日本に対して共同動作に 出ると考えた。 仕事相手の岡敬純海軍大佐(のちの軍務局長)に、「いったい 日本の海軍は英米海軍がたばになってかかって来た場合、勝つ見込があるか」 と質すと、岡大佐は「それは外交の手で英米を離してもらうのだ」という。 寺 崎さんは「そんなことは俺の両手両足をしばって品川の台場で海にほうり込み、 それ房州まで泳いで行けというのと同じだよ」と答え、受けつけなかったそう だ。

日本人は、政治、ことに国際政治(外交)に盲目になるように育てられてき た。 この智的欠陥からくる脆さは、その本来の勘にもかかわらず、ついに軍 部の強引な宣伝や施策の前に、ひとたまりもなく押し切られ、日支事変に疲れ た身を、太平洋戦争に投ずるに至った、というのが寺崎太郎さんの解釈である。

日本帝国を崩壊させた「統帥権」2015/08/09 07:02

 寺崎太郎さんの『れいめい』に、「天皇制・統帥権・外務省枢軸派」という号 がある。 記したのは「昭和42(1967)年節分の日の朝」とある。 司馬遼 太郎さんが「かつての日本をほろぼした」と強調していた「統帥権」の問題で ある。 寺崎太郎さんは、こう書いている。

 「第二次近衛内閣の外務大臣は、音に名高い故松岡洋右さん、私がここでは っきり書き残しておきたいのは、当時、少壮職業軍人の群とガッチリ手を組み、 外務省の役人でありながら、軍閥の手先となって、国家の最高方針に反し、あ たかもドイツ人さながらに、「打倒米英!」「ハイル・ヒットラー!」と高唱し てはばからぬ、いわゆる「枢軸派」と称される輩が、暴威をふるっていたとい うことである。」

 国政の最高責任者近衛総理の定めた外交方針は「日米交渉の妥結による戦争 回避」であった。 それを主管する寺崎アメリカ局長の陣営は、結城司郎次ア メリカ局第一課長、稲垣太郎事務官、佐東武雄局長付の4人きりだった。 仕 事が重大なのにもかかわらず、極端に小人数だったのは、すべて機密保持のた めである。 省内は、松岡外相の後の、豊田貞次郎外相の時代も、「枢軸派」に よって制圧されていた。 近衛首相自身が寺崎さんに、そう述懐したというが、 当時、日本は事実上治めていたのは、内閣総理大臣ではなく、陸海軍とくに陸 軍軍務局長だった(当時の陸軍軍務局長武藤章は東京裁判で絞首刑になる)。

 「これらの悲しむべき事態の根底にあるものは、日本人の「長いものにまか れろ主義」「泣く子と地頭には勝てない」という奴隷根性と、日本帝国憲法定む るところの、いわゆる「統帥権」の存在にあった、と信ずる。」

 日本帝国憲法(旧憲法)は、伊藤博文が、プロシア王国憲法に範をとった、 元首(日本の場合は天皇)親政を建前としたものである。 旧憲法も、形式上 は「三権分立」の形をとっている。 すなわち、内閣総理大臣を首班とする政 府、国会、裁判所である。 しかし、それはどこまでも形の上のことで、裁判 所は「天皇の名において裁判する」のであって、政府行為中の「外交」に関し ても「天皇は、戦を宣し、和を講じ、諸般の条約を締結す」とある。 このよ うに、国権の源は、ことごとく天皇であって、国務大臣といえども、国政に関 し天皇を輔弼(ほひつ)するにとどまり、国政は、行政・司法・立法のすべて は、究極において、「大権事項」であり、閣僚として責任を負うのは、国務大臣 だけで、「天皇は神聖にして侵すべからず」とあって、すべての権はただ一人の 手中におさめているが、国政上はまったく無責任、というのが旧憲法であった。

 外交方針についても、重要案件については陸・海軍省軍務局長と事前協議し たのは、もちろんだった。 そういうことになっていたし、そうしなければ、 軍部とくに陸軍からヨコヤリが出て、内閣は一朝にしてすっ飛んでしまうのだ。  政府には、現役の職業軍人が、国務大臣たる陸相および海相として参加してい る。 政務の一切は、この両名を通じ、統帥部(参謀本部(陸軍)・軍令部(海 軍))に筒抜けである。 陸軍のいう通りにならないと、軍部は、さっそく「現 内閣とは協力できない」と、陸軍大臣を引き上げてしまう。 軍部大臣は山本 権兵衛首相の時「現役たるを要せず」と改正したのを、広田弘毅内閣の時に「現 役大・中将」に逆戻りしてしまった。 天皇から「組閣の大命」が下っても、 陸軍が大臣を出さないといえば、組閣ができない。 また、旧憲法下、軍の指 揮・統帥に関する事項について、統帥機関たる参謀総長(陸軍)・軍令部総長(海 軍)が閣議を経ずに直接天皇に上奏する「帷幄(いあく)上奏権」があった。

 軍部とくに陸軍は、国政を左右する上に、「軍政」と「軍令」の使いわけをし た。 「軍政」は、国務大臣たる陸相が、国務大臣として担当する「予算」「編 成」「装備」など。 「軍令」は、いわゆる統帥事項で、「兵力の決定」「用兵」 「動員下命」などだった。 「軍令」事項に関しては、天皇に直属し、絶対に 政府・国会の容喙(ようかい)を許さず、国の破滅を招いた。

 陸軍省は、寺崎アメリカ局長の外務省と“協力”し、日米交渉に加わるが、 参謀本部は、政府や国会になんら事前にはかることなく、動員令を下し、台湾 に大部隊を集結する。 在京アメリカ大使館は、台北その他の領事館や通航す る自国他国の船舶からの通報で、それを承知しているのに、知らないのは、寝 食を忘れて日米交渉をやっている寺崎さんたちということになる。 アメリカ 側は当然、わが国外交の誠意を疑う。 日米交渉にどんな悪影響があろうとも、 すでに上御一人の裁可を得ているのだから、近衛内閣なんかクソクラエという ことになる。

 「帷幄上奏権」の悪用・濫用が、すべての不幸の原因となった。 伊藤博文 の真意は、直接天皇直属の「軍令」機関を設け、国防を政党間の政争の外にお くことにあったようだが、それが逆にこの天皇直属の機関こそが、日本帝国崩 壊の因となったのである、と寺崎太郎さんは述懐している。

司馬遼太郎「“雑貨屋”の帝国主義」2015/08/10 06:30

 司馬遼太郎さんが「かつての日本をほろぼした」と強調した「統帥権」を、 どう書いていたか、振り返ってみたい。

 『この国のかたち』一(文春文庫)「3 “雑貨屋”の帝国主義」は、「以下が、 夢だったのかどうかは、わからない。ともかくも山を登りつづけていて、不意 に浅茅ヶ原に出てしまった」と、始まる。 そこに、巨大な青みどろの不定形 なモノが横たわっていた。 色のない浅茅ヶ原で、その粘膜質にぬめったモノ だけは色がある。 ただし、ときに褐色になったり、黒い斑点を帯びたり、黒 色になったりもする。 両眼が金色に光り、口中に牙もあるが、それは折れて いる。 形はたえず変化し、とらえようがない。 「君はなにかね、ときいて みると、驚いたことにその異胎(いたい)は、声を発した。 『日本の近代だ』 というのである。」 そのモノは、近代を定義して、1905(明治38)年から1945 (昭和20)年の間の40年間のことだと明晰にいう。 つまりこの異胎は、日 露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦の時間が、形になって、山中に捨てられて いるらしい。 「おれを四十年とよんでくれ」と。

 日露戦争前、日本は7、8年のあいだに、世界有数の海軍を建設した。 ロ シア海軍をほぼ潰滅した勝利後、なぜ、にわかづくりの海軍を半減して、みず からの防衛に適合した小さな海軍にもどさなかったのか。 大海軍というのは、 世界中のさまざまなところに植民地を持つ国にして、はじめて必要なものなの である。 帝国というものが収奪の機構であるとすれば、イギリスは大海軍を 必要とした。 日露戦争終了のときには、日本は、世界中に植民地などもって いない。 その異胎のモノは、「戦後、多数の海軍軍人が残った」という。

日本は日露戦争後、5年して、韓国を合併した。 数千年の文化と強烈な民 族的自負心をもつその国の独立をうばうことで、子々孫々までの恨みを買うに いたったが、当時の日本の指導者はそのことについての想像力をもっていたの か、その異胎に訊いてみた。 「あのころには、深刻な事情があった」と、い った。 ロシアは、その辺境の“満洲”でわずかな差で敗れたとはいえ、巨大 な余力を残していた。 かならず報復のための第二次日露戦争を仕掛けてくる、 と日本は思っていた、という。 主として誰が? ときくと、「参謀本部だ」と、 恐ろしい声を出した。 「ひょっとすると、このモノは、参謀本部そのもので はあるまいか」 ふと、そう思った。

日露戦争後、明治41(1908)年、関係条例が大きく改正され、参謀本部は、 内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。 「将来の対露戦の必要 から、韓国から国家であることを奪ったとすれば、そういう思想の卸し元は参 謀本部であったとしか言いようがない。」

帝国主義は、過剰になった商品と資本の捌け口(はけぐち)を他に求めるや り方だといえよう。 当時の日本は、朝鮮を奪ったところで、過剰な商品など なく、朝鮮に売れるのは、せいぜいタオルとか、マッチとか、日本酒とか、そ の他の日用雑貨品が主なものだった。 そんなものを売るがために、他国を侵 略する帝国主義がどこにあるだろうか。

 「要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思 えない。」 日露戦争末期、ポーツマスで講和の条件が話し合われた。 ロシア は強気だった。 日本に戦争継続の能力が尽きようとしているのを知っていた し、内部に“革命”という最大の敵をかかえているものの、物量の面では戦争 を長期化させて日本軍を自滅させることも、不可能ではなかった。 弱点は日 本側にあったが、代表の小村寿太郎はそれを見せず、ぎりぎりの条件で講和を 結んだ。

 ここに、大群衆が登場する。 平和の値段が安すぎるというもので、「国民新 聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。 日比谷公園の講和条 約反対の国民大会に集った3万といわれる群衆は、暴徒化し、警察署や交番、 教会や民家を焼き、政府は戒厳令を布かざるをえなくなる。 むろん、戦争の 実相を明かさなかった政府の秘密主義や、煽るのみで真実を知ろうとしなかっ た新聞にも、原因や責任はあった。

 その後、日本は昭和7(1932)年に満洲国をつくり、昭和10(1935)年「統 帥権」が内閣から独走して、華北に謀略的に冀東(きとう)政権(冀東防共自 治政府)をつくった。 日本からの商品が満州国に入る場合、無関税だった。  この商品が、華北にも無関税で入るようになった。 密輸の合法化ともいうべ きこのカラクリで、上海あたりで芽を出していた中国の民族資本は総倒れとな った。 でも、その商品たるや、昭和10(1935)年の段階で、なお人絹と砂 糖と雑貨が主だった。 「このちゃちな“帝国主義”のために国家そのものが ほろぶことになる。一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんなばかな四十年を持 った国があるだろうか」と、司馬遼太郎さんは書いていたのである。