日本橋で始まった「落語研究会」(第一次)2015/10/29 06:29

 三遊亭圓生は、昭和53(1978)年に集英社から出した『圓生 江戸散歩』を 「日本橋」から始めている。 私は朝日新聞社が昭和61(1986)年に文庫化 した上下巻を持っている。 昔、「擬宝珠(ぎぼし)の間の噺家」という言葉を 使ったという。 日本橋と京橋の間で、もて囃される噺家が、第一級品である、 ということだそうだ。 今から考えると、ずいぶん狭いもんだけれど、そこに あった中央の寄席へ出る噺家は幅がきいたものだという。 下町の人はどうい うわけか山手(やまのて)方面に住んでいる人を、見下したようなところがあ って、噺家でも中央の席へ出演出来ないのを「山手まわり」だとか「土手組」 なんて云って、一流ではないとしていたそうだ。

 白木屋の方、今の東急と、圓生は書いているけれど、今ではCOREDO日本 橋、銀座から見て、その先右側の横丁を木原店(きはらだな)、食傷新道(しょ くしょうじんみち)といい、木原亭という寄席があった。 食傷新道というの は、鮨屋、天ぷら屋、鶏屋、懐石料理など、食べもの屋がどっさり並んでいた から。 圓生が一番馴染の深いのが、左っ側で苗字が石田と云った「赤あんど ん」、茶めしの店。 できますものは、あんかけ豆腐、いりとり(炒り鶏。蒟蒻 と鶏を炒ったもの)、信田の煮たのなど、三品ぐらいぐらい取って、茶めしを食 べて十銭とかなり安い。 木原亭に出たときに誂えると、朱塗りのお膳の上に のせて、持って来てくれて十銭で食べられる。

 木原亭は、明治初年、圓朝のかかった時代には、ずいぶん客が来たんだとい う。 界隈には大店があって、人がずいぶん住んでいた、奉公人がどっさりい る。 魚河岸があり、傍に兜町、株の取引所がある。

 日本橋のちょうど前のところ、角が蒲団屋さんの西川で、大震災前まではそ の隣が紙屋さんの榛原、そのまた隣に常盤木倶楽部という貸席があった。 こ こで、落語研究会というものをやった。 明治38(1905)年の3月が、第1 回。 当時、三遊亭圓朝の弟子の圓遊(初代と称したが三代目)が落語界を風 靡していた。 時代に合わせて、噺をくずして面白くした人で、それだけの功 があったのだが、圓遊調は落語本来のものではない。 圓遊の真似さえすれば 噺家も売り出すことができるというので、圓遊の物真似がはびこり、つまり下 手(まず)い圓遊ばかりがこてこてに増えた。 そしていい噺をする者、芸の できる者がみんな脇に押しのけられてしまったというわけだ。 それを、やは り圓朝の弟子で三遊亭圓左という非常な芸熱心な人が、どうかして本当の落語 というものを存続させたい、それができるのは今である、と考えた。 それで 落語、講談の速記を雑誌に掲載するについて隠然たる勢力を持っていた今村次 郎に、落語研究会というものをやってみたい、と相談した。 それから批評家 の岡鬼太郎、森暁紅、石谷(いしがや)華堤の三人に話をした。 まことに結 構である、このままではいかんからぜひとも、ちゃんとした噺を残すようにし てもらいたい、ということになって、三人が落語研究会顧問、今村次郎が会計 から何から万事一般の事務のことを引き受けるということで、落語研究会(第 一次)が明治38年に誕生した。

 選ばれたのが、橘家圓喬、三遊亭圓右、橘家圓蔵(圓生の師匠)、三遊亭小圓 朝、それに発起人の三遊亭圓左の五人が三遊派、柳派からはただ一人柳家小さ ん(三代目)が入って六人でスタートした。 この会は大正12(1923)年8 月(つまり、関東大震災)まで続く。