漱石の博士号辞退と三文化人紙幣 ― 2016/12/11 07:13
夏目漱石の博士号辞退問題(明治44(1911)年)についても、はがき時代の 「等々力短信」に書いていたので、それから始める。 実は、その時、新千円 札に夏目漱石が、一万円札に福沢諭吉、五千円札に新渡戸稲造が登場すること が決定した時に書いたもので、新渡戸夫人がアメリカ人だったことも出て来る ので、前後を合せ三回分を引いておく。
等々力短信 第223号 1981(昭和56)年7月25日
明治44年2月21日付、夏目漱石の文部省専門学務局長福原鐐二郎宛書簡。 (『漱石全集』第15巻) 「学位授与と申すと二三日前の新聞で承知した通り 博士会で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の称号を小生に授与になる事 かと存じます。然る処小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参り ましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮したい希望を持って居り ます。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。」
当時、博士の学位はずいぶん重くみられていて、大変な名誉であった。 漱 石は、自分の意向も聞かずに、学位をやるといえば喜ぶだろうというやり方が 気にくわなかったらしい。
漱石に聞けば、新千円札に勝手に顔を使おうとする役人なんぞ「ハイカラ野 郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ 引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」というに違いない。
等々力短信 第222号 1981(昭和56)年7月15日
昭和59(1984)年秋、福沢諭吉一万円札発行の際、慶應の卒業生には見本 として百枚、私のような福沢諭吉協会々員には、さらに百枚が贈られることに なった。 この話、すこぶる怪しい。 なぜなら、私が作ったのだから。
新聞は福沢家、慶應関係者の手ばなしの喜びようを伝えているが、地下の福 沢さんに聞けば、辞退するに違いないと、私は思う。
福沢は再三の明治政府の召命を謝絶したばかりでなく、国家につくした功労 を誉めようとする政府に「車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐を拵へ、書生は書を 読むといふのは、人間当前の仕事をしているのだ。其仕事をしている者を誉め るなら先づ隣の豆腐屋から誉めて貰はねばならぬ」と、断った。(『福翁自伝』)
そして叙位叙勲の話が出るたびに謝絶するか、予防につとめた。 「爵位の 如きただこれ飼犬の首輪に異ならず」(明治30年『福翁百話』九十四) 一万円札に「働く豆腐屋はいかが」。
等々力短信 第224号 1981(昭和56)年8月5日
五千円札、新渡戸稲造博士について、何も知らなかったといってよい。 い つも行く図書館には、伝記もなかった。 岩波文庫の『武士道』を買う。
フィラデルフィアの名望家の娘であった新渡戸夫人は、これこれの思想や風 習が日本で広く行われているのはなぜかと、しばしば質問した。 ある外国人 は、日本では宗教なしにどうやって道徳教育を授けるのかと聞いた。 その答 が、この『武士道』だった。
「武士道は非経済的である。それは貧困を誇る」「金銭なく価格なくしてのみ なされうる仕事のあることを、武士道は信じた」「教育においてなされる最善の 仕事――すなわち霊魂の啓発は、具体的、把握的、量定的でない。量定しえざ るものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用うるに適しないのである」 (第十章)
新渡戸の時代、まだ「武士道」が道徳の基準として生きていた。 今や「武 士道」は消え、新渡戸は貨幣になる。
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